こちらのアイテムは2022/5/29(日)開催・第三十四回文学フリマ東京にて入手できます。
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非日常のデッサン

  • ア-31〜32 (小説|エンタメ・大衆小説)
  • ひにちじょうのでっさん
  • 大町はな
  • 書籍|文庫判(A6)
  • 500円
  • 文学フリマ広島に向けた中国地方の物語「虫明の牡蠣」を含めた鳥取在住の作家・大町はなの好篇。


    「虫明の牡蠣」

     鳥取県は雨が多い。「弁当忘れても傘忘れるな」とはよく言ったもので、晴れているからと油断していれば、すぐにずぶ濡れになるような地域である。年間を通して太陽の肩身は極端に狭く、そんな山陰の気候によく似た俺は、涙もろい天気が続けばすぐに気分が重くなった。

     今日も天気は荒れ模様で、湿気を吸って膨れたような鉛雲が、残業の疲れを一層引き立たせる。ひとたび車を走らせれば雨だれが窓に罫線を引き、さながらミミズのように這っては消えていった。帰宅しても尚とどまる気配のない雨に、つい車から出るのが億劫になるが、いくら待っても勢いを増すだけなので、ここらで踏ん切りをつけなければ、とため息ばかりが増える。俺はフロントガラスに映る空を見て、「岡山ならもっと綺麗なんだろうな」と一人呟いた。

     小さい頃に家族で旅行した岡山の空は、果ての果てまで真っ青で、雲ひとつなく晴れ渡っていた。ぐずぐずと日陰にいるうちは、きっとあのような快晴は拝めないのだろうと、諦めてドアを開けば全身は瞬く間に濡れそぼり、たかだか数メートルの距離であろうと土砂降りの威力はすさまじかった。銃弾のような氷雨に蜂の巣にされながら、やっとの思いで玄関に駆け込むと、それを見計らったかのように固定電話がけたたましく鳴り響いた。

    「谷本、元気か。俺、俺だよ」

     電話の相手は竹内だった。詐欺の手口を思わせる名乗り方は、学生時代から変わらない。

    「ああ、久しぶりだな。俺、お前に携帯の番号おしえてなかったっけ?」

     最後に合ったのが三年前。飲み屋で連絡先を交換した気でいたが、二人ともベロベロに酔っぱらっていたからまるで覚えていない。

    「久しぶりに自分の記憶力を試してみたくなったんだ。お前、まだ実家にいたんだな」

     竹内はのんびりと懐かしそうな声を出す。幼い頃はよく、他愛のない用事を作ってお互いの家に電話を掛け合ったものだ。

    「俺はずっとこっちにいるつもりだよ。前会った時、言わなかったか?」

     早くに父親を亡くしてから、ずっと母ひとり子ひとりで生きてきた俺には、日々弱っていく母を前にして県外で勤める事などとてもできなかった。幸い、狭い地域の中では顔もよく知られていたため、高校を卒業してすぐ、事情を酌んだ建材屋が働き口を用意してくれた。それから今に至るまで二十年、ただひたすらに目の前の現実だけを見て、堅実に仕事をこなしてきたが、閉鎖された田舎の中でも、同年代の男たちは皆、小賢しく遊んでいて、働きずくめの俺を建材屋の社長は憐れんだ。しかし娯楽を知らない俺は何が悲しいのかも見当がつかないまま、がむしゃらに汗を流すばかりだった。

     我が家の貧しさは布についた古い油染みのようで、母と俺とでその汚れを落とそうと死に物狂いで働いたが、二人の稼ぎを合わせても白湯で擦るほどにしかならなかった。先の見えない貧困にあえぎながら、俺はいつも早々に亡くなった父を恨んだが、母は悪口を言うどころか、話題にする事すら無かった。

     一言の不満も漏らさず黙々と働く母に、一度だけ父への不満をぶつけた事がある。きっと同調してくれるだろうと思ったが、彼女は少しの間気の抜けたような顔をして、「父さんはせっかちだったから」と呟くだけだった。

     その母も、去年の暮れに亡くなった。俺の仕事が安定してからは暮らしもいくらかましになり、隠居に構えてようやく腰を下ろした矢先の事だった。生涯を通して肉が付かなかった母の身体は、気付けば小枝のように痩せ細っていて、子どもの背丈ほどの棺でも容易く収まった。

     この人はついぞ楽を知る事ができなかったな、と思えばこそ悲しくなったが、火に入れるその時まで、涙は一滴も出なかった。それは薄情な事でもなんでもなく、自分もまた同じだと震え上がったからだ。母への恩返しを理由に遊びの一つもしないまま働いて、気付けば四十にもなろうという俺に嫁の気配などあるはずもなく、残ったのは黴臭い家屋と母の遺骨だけだった。俺は杖となって母の人生を共に歩んでいて、その主役亡き今、どうやって生きていけばいいのだろうか。

    「おい、聞いてるか?」

     竹内の声ではっと我に返る。

    「すまない、ちょっとぼんやりしてた。何の話だったっけ?」

     彼は「勘弁してくれよ」とため息をつきながら、相変わらずだなと小さく笑った。

    「隠岐に住む知り合いから珍しい焼酎をもらったんだ。海藻から作った焼酎で、これが飛びあがるほどうまいらしい」

     昔から馴染んでいるせいか、竹内とは酒の好みが良く似た。二人ともずば抜けて飲むのは焼酎で、ならば日本酒もさぞかし、と勧められるのだが、これがどうも好かない。蒸留酒が好きなのだと気付かされたのは、竹内にウイスキーを教わった時だった。

    「海藻焼酎なんて初めて聞くな。湯割りにして、魚でも食ったらうまそうだ」

     雪こそ降らないが、底冷えのするこの時期に、湯割りの焼酎はたまらない。温めれば磯の香りも十分に引き立つだろうから、海鮮で追い打ちをかけてやろうというのだ。俺の提案に、竹内は電話越しでも伝わるほどにやけた声を出した。

    「そうだろう。そこで、瀬戸内の牡蠣でもつまみながら飲もうと思うのよ」

     瀬戸内か。そういえば家族で行った岡山の遊園地は、瀬戸大橋がよく見える場所にあったっけ。そこは鷲羽山にほど近いせいかとにかく坂が多く、七月ともなれば俺も親父も汗だくだった。そんな中、母だけが白い顔をして、黙々と階段を昇っていたのが今でも強く焼き付いている。乗り物には一切乗らず、ただ長椅子に座ってこちらに手を振るか、長い階段を昇るだけだった彼女が、他の誰よりも楽しそうに笑っていたのが印象的だった。


    < つづく >


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