「アミール、身支度をさせて連れてまいりましたよ。どうやら何も覚えておらぬようです。名前さえも」
傍らにいる男がそう言う。やはりゆったりと座っている目の前の男がアミールなのだ。
「そうか、ご苦労だったなサーイブ。こちらへ」
傍らの男はサーイブというのか。そう頭の中で考えていれば、トンと背中を押された。
「何をしているのです? はやくアミールの元へ」
早く行けといわんばかりに背を押されて、おずおずとアミールの元へ足を進める。すぐそばに来た時、膝に衝撃が走ってカクンと膝をついてしまった。
「サテュがアミールを見下ろすなど不敬ですよ」
怒ったようにサーイブが言う。どうやらサーイブが後ろから膝を折らせたようだ。倒れ込むように膝をついたからか、すぐ近くにアミールの顔がある。褐色の肌に凛々しい眉を持つ美丈夫だ。
「これはまた、まるで宝石だな。白い肌に青みがかった黒い瞳、美しい黒髪か。これほどに美しければさぞ愛玩されて閉じ込められるであろうに。あのように打ち捨てられるなど、いったい何をやらかしたのやら」
ん? と器用に片眉を上げて、顎の下をコショコショと撫でてくるアミールを見上げることしかできない。彼が何を言っているのか、言語としては理解していたがその意味を理解できていなかったからだ。何をやらかしたのかと言われても、何も自分の中に残っていないのだから答えようもない。
「できればアミールも早々に捨ててくださるとありがたいのですがね。あのような姿で打ち捨てられるなど、嫌な予感しかしません」
サーイブはやれやれと難しい顔をしてため息をついている。そうは言ってもアミールである彼がこのサテュを手元に置くのがわかっているのだろう。
「このような白い肌で外に捨て去れば早々に死ぬ定めだ。現に危なかったのだろう? サテュは愛玩されるために作られた亜種。人間の都合で作り上げたというのに死ぬとわかっていながら放り出すなど無慈悲な真似はできないな。それにサーイブ、見てみよ。これほど美しいというのに、何一つ知らぬ赤ん坊のようだ。この子は愛されるために存在する」
アミールは愛しむようにそっとサテュの頬を撫でた。
「幸いこの宮殿にサテュはおらぬ。いじめられることもあるまい」
何もわかっていないサテュにクスリと笑んで、アミールはサテュを抱き上げて己の膝に座らせた。
「私はこのファルトフの第五王子、ナウファル・ビン・アシード・アル・タリファン。ナウファルでもアミールでも好きに呼ぶといい」
なるほど、アミールの名前がナウファルだったのかとサテュは頷く。
「だがお前にも名がないと少々不便だな。……よし、お前のことはこれからクティータと呼ぼう。可愛い私の子猫だからな」
「そのまんまですね」
クティータとは〝子猫〟という意味だ。サーイブの言う通り、とても安直な名前である。
「サーイブ、クティータに似合いそうな首輪を幾つか取りよせよ。この子はまだ赤ん坊だからな、迷子にならないよう鈴の付いた首輪だ」
意識を失う前、〝大切な大切な、ネコとして〟と聞こえたような気がしていたが、どうやらそれは気のせいではなかったようだ。クティータと名付けられたサテュはビクリと肩を震わせる。己が畜生として扱われる、その恐怖だったのか。
クティータが怯えていることに気づいたのか、ナウファルは宥めるようにクティータの顎の下をコショコショとくすぐる。
「安心するといい。私はいじめるのは好きじゃないからな。溺れるほどの愛情を与えよう、もう私なしではいられないほどに甘やかしてやる」
己はネコじゃないとクティータはフィッと顔を背けて顎をくすぐる手を避け、ナウファルを睨む。追いかけるように頬に伸ばされた手の指に思わず噛みついた。
「貴様何をッッ!!」
サーイブが気色ばんでクティータを掴もうとするが、当のナウファルがそれを止めた。強い力で己の指を噛むクティータに笑みを浮かべる。
「噛みたければ噛めばよい。噛もうと、引っ掻こうと、私はお前を甘やかすし、逃がしもしない。お前は可愛い可愛い産まれたての〝クティータ〟なのだから」
噛まれて指から血を流しているのに微笑んでそんなことをいうナウファルが、クティータの目には狂気のように映った。己は恐ろしいものに縋り、命を救われたのかもしれない。恐怖に思わず顎の力を弱める。それにまたにっこりとナウファルは笑った。
「いい子だ」
その言葉が、見つめてくる瞳が、恐ろしかった。
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