父が失踪して冷泉の家に居候する身となってから、和仁の左手はいつだって媛香の手を引くために空けられていた。幼かった妹にいらぬ苦しみを与えたくなくて、和仁は両親のことを話すことなく、家ではいつも疲れた顔見せず笑ってきた。昼も夜も働いて、そんな和仁の境遇を知った人はたいてい憐れむか嘲笑するかのどちらかだった。父のことを知る人に偶然会った時は、皆が揃って和仁や媛香を嗤う。どうやら和仁の知らない父の外での顔は人からよく恨みを買うものであったらしい。
それでも、和仁は歯を食いしばって生きてきた。母は生前、自分で働くという概念はなく、中に入るでも話しかけてくるでもないというのに時折離れの様子を見に来る国光の姿に、彼は媛香を気に入って将来は番にするつもりなのではとウキウキしていたけれど、和仁は本人以外の都合で媛香の将来を決める気もなければ、あの冷たい瞳をした男に大切な妹を任せる気もなかった。
沢山のモノを恐れ、沢山のモノから妹を守らんと気を張り詰めて生きてきた。それが気づかぬうちに負担となっていたのか、いつの頃からか和仁には発情期が訪れなくなっていた。安全の為に抑制剤は持ち歩いていたが、もう長い間それを口にしたことはない。オメガとしてはあまり良くない状態であるし、もしかしたら何かが身体を蝕んでの症状だったのかもしれないが、金が勿体ないからと病院に行くことすらせず、むしろ一人分だけでも抑制剤を買う代金が浮くとあって、媛香に気づかれていないことを幸いに和仁は何も気にすることなく放置していた。
忘れ去っていた熱が身体を蝕み、もう何年も前のことで自分がどうやってこの熱を耐えていたのかさえ思い出せない。何かに怯えるように身を丸めようとするが、シーツが擦れただけで肌が泡立ち、己のものとは思えぬほどに甘い吐息が零れ落ちる。その瞬間、和仁の脳裏に少しの疑問が生まれた。
(シー、ツ……?)
冷泉家の離れを出てから媛香の物を揃えるのに必死で、和仁は座布団を枕がわりに毛布に包まるだけで布団すら持っていなかった。だというのに、なぜ頬に柔らかなシーツがあたっているのだろう。知らぬ間に媛香の部屋にでも入ったのだろうか。しかし和仁は媛香が女性であることから緊急時以外は入ったりしない。無意識に入ってしまい、かつベッドに寝ころんでいるなど、どう考えても不自然だ。
何か、何かがおかしい。熱で浮かされた頭がガンガンと痛み警鐘を鳴らしている。和仁は熱に溶かされそうになる理性を押しとどめ、震える瞼を開いた。
「起きたか」
知った男の声がすぐ近くで聞こえる。視線を向ければ国光がベッドに腰かけており、和仁の顔を冷たい瞳で見下ろしていた。
「車を降りた瞬間に気を失ったから驚いたが、特に問題は無さそうだな」
忙しくてしばらく切っておらず長くなっていた和仁の前髪を、ほんの少し熱い手がサラリとかき上げるようにして撫でる。その冷静な口調に和仁は唇を噛んだ。
問題は無い? 何を見てそう言っているというのか。こんなにも身体が熱くて理性など千切れてしまいそうだというのに、目の前にいるのはアルファの男。それも、和仁が最も関わりたくないと思っている男だ。
アルファやオメガの意志に関係なく、オメガが発情すればアルファは引き寄せられ本能のままに貪り、そしてオメガの身体はそれを喜ぶ。そこには獣の本能があるばかりで、世の中の常識もしがらみも、何もかもが関係なくなってしまう。つまり和仁がこのままでいたならば、たとえ国光が望まずとも、和仁が嫌がろうとも、身体を繋げてしまう可能性が高くなるということだ。
最も関わりたくない冷泉に、最悪な形で関わってしまうことになる。それだけは避けなくてはならない。
和仁は泥のように沈み込む身体を起こそうと必死に腕を動かした。その動きと熱で真っ赤になっているにも関わらず焦燥した表情を見て、和仁が何をしようとしているのかを察知した国光はそっと和仁の身体をシーツに押し戻す。
「ここは私が所有している屋敷だ。私が許可した者以外は例え両親であろうと足を踏み入れることはできない。安心してここに居なさい。それに、そんな身体ではどこにも行けないだろう」
諭されるように言われて、和仁はいやいやと首を横に振る。
「だめ、だっ……、よくせい……ざ……」
抑制剤を飲んで、すぐにここを出る。そう思っているのに震える唇はたどたどしく言葉を紡ぐばかりでもどかしい。何もかもに苛立ち焦る和仁とは対照的に、国光は冷静に淡々と、残酷な言葉を紡いだ。
「無駄だ。こうなってしまっては抑制剤など効かない」
国光の頭が和仁の肩口に近づく。甘い、アルファを誘う香りが国光の鼻腔をくすぐった。
「こんなに甘い匂いをさせながら外に出ることを許すとでも?」
そんなことをすればどうなるかなど、発情期を迎えたばかりの子供でもわかることだ。この香りを、この熱に浮かされた顔を他者が見るかもしれないと考えただけで、国光は怒りのあまりどうにかなってしまいそうになる。
「だから早くセキュリティーが万全なマンションに引っ越しなさいと言ったんだ。それでも、和仁は私の言うことを聞かなかった。なら、こうなることは覚悟していたのだろう?」
スッと頬を撫でられて、和仁は目を見開いた。情事を思わせるように触れる指も、艶やかに聞こえる声も、熱の籠った瞳も、和仁は知らない。彼はこんなにも強いベンゾインの香りをしていただろうか。
「和仁が冷泉を出た時に、言ったはずだ。〝私の番〟だと。その言葉を、忘れたとは言わせない」
ようやくこの時が来た。そう呟く声にゾクリと震える。
「な……で……。それは、媛香を……、だから、おれはッ……」
グルグルと混乱した頭で和仁は必死に言い返す。それはもはや叫びに近かった。
国光の言う通り、〝私の番〟という言葉を和仁は今まで一瞬たりとて忘れたことなど無かった。だからこそ和仁はその言葉が現実とならないよう国光から媛香を遠ざけ、守ってきたのだから。媛香が番を得たと聞いて寂しさを感じはしたものの、これで国光と媛香が番になることは避けられたと、そう思っていたのに。なぜ今になって国光はそんな昔の話を持ち出し、和仁を押し倒しているのか。和仁のアルバイトを逐一把握している国光が、媛香が番を得て家を出たという事実を知らないはずがないのに。
身の内から沸き上がる熱と国光の言葉に脳内がグチャグチャとなり、すべてを振り払おうとするかのように頭を振る和仁を、国光は口元に笑みを浮かべながら見つめていた。それは優しい笑みというより、獲物を食らわんとする獣のようだ。
「媛香には、既に番がいるはずだ。それに、あの時私が言った〝番〟というのは、お前のことだよ、和仁。まさか本気で、今までずっと媛香の事だと思っていたとはな」
確かに媛香をと言っていたのは母だけで、あの時の国光は〝誰か〟を明確に言わなかった。その後も、国光の口から媛香を番にと聞いたことは無い。和仁がそう思い込んだだけ。
(でも、なんで……)
冷泉家にとって疫病神でしかない和仁を、なぜ望めばどんなオメガであろうと手に入れることができるであろう国光が求めるというのか。和仁は媛香のように美しくもなければ学歴があるわけでもない。働くために高校には進学せず、金を惜しんで手入れのされていない髪はボサボサで、水仕事も多くしてきた手はひび割れ、あかぎれている。骨が浮くほどに痩せっぽっちで、可愛げも持ち合わせていない。
媛香を生かすため、幸せにするためにすべてを投げ捨て、顧みてこなかった。そのことに対して後悔などは微塵も無いが、それでもアルファどころかベータにさえ興味の欠片も持たれない人間になったことは自覚している。アルファを敵視してきた己には良い結果だとさえ思ってきたのに、なぜ今になって国光はこんなことをするのだろう。
百歩譲って、冷泉の離れに居た時の和仁を好きになったのだとしても、もうあれから随分と時間が経ち、今の和仁にあの頃の面影は何処にもない。なのに、なのに何故……ッッ!!
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