楓はまるで母に縋りつく子供のように身体全体で大木にしがみついた。今まで感じたことがないほどに楽に呼吸ができる。でも涙が溢れて止まらなかった。その時、あたたかな温もりがそっと眦の涙を拭った。気配さえもなかった突然の出来事に楓はハッと目を開き振り返る。既に暗くなっている空と同化するように、闇に染まった男が立っていた。楓とは違う、スラリとしながらも筋肉のついた身体と雄々しく美しい面差し。一目でわかった。彼はアルファだ。
「……すまない。脅かすつもりはなかったんだが」
目を見開いて身体を強張らせている楓に男は伸ばしていた手を引っ込めた。おそらくは彼が楓の涙を拭ったのだろう。
「……いえ。お見苦しいところをお見せしました。では……」
いい大人が涙を流しているところを見られた羞恥で、楓は少し乱雑に目元を袖で拭い大木から身体を離した。早々に立ち去ろうと足を動かしたとき、グイッと右腕を取られる。力の強さに楓は思わず顔を顰めた。
「……なんでしょう? 放していただけませんか」
冷たい声音だ。敵意と不機嫌を隠そうともしない楓の声に男は動じた様子はなかった。
「なぜここに来たんだ」
「たまたま、としか言いようがありませんが。それより、放してください」
グイッと腕を自分の方へと引くが、どうあっても男は手を放す気はないらしい。楓の中で苛立ちが募った。どうして見も知らぬ男に腕を掴まれていないといけないのか。
男は何かを考えるように視線を険しくして口を閉ざした。その時、ふわりと男の身体からアンバーのような香りがして、楓の鼻孔をくすぐった。やはり彼はアルファだ。そう確信した直後、急に楓の鼓動がドクリと大きく跳ねた。早鐘を打つようにバクバクとうるさい。じわりと嫌な汗が流れて、身体が火照った。喉がカラカラに乾いて、無意識のうちに口を半開きにしてしまう。頬は紅潮し、ガクガクと足が震えた。
――発情期だ。
まさかそんな、と楓は混乱してしまう。まだ発情期がくるはずではないし、何よりこんなに酷い発情期は経験したことがない。混乱しながらも楓は脳内に響く警鐘に耳を傾けた。
目の前にいるのはアルファだ。それもおそらくは、相当に強い力の持ったアルファ。
男も楓の異常に気が付いたようだった。目を見開き楓を凝視している。それに逆らうように楓は渾身の力で男を突き飛ばした。その時に手が大木にあたってすりむき、血が流れる。
今は亡き父の言葉が蘇り、咄嗟にポケットティッシュで手の甲を抑えながら楓は男から離れるために走った。後ろで男が何かを言っているが、楓はそれに構っている余裕がない。走って走って、胸を喘がせながら転がるように自室へと入り込む。そして鍵とチェーンをかけた。足をもつれさせながら薬を入れている引き出しへと向かい、震える指で白い錠剤を押し出す。熱い息を吐き出す口に押し込み、飲み込んだ。
(大丈夫……大丈夫――……)
なぜ時期ではないのに、急に発情期が訪れたのかはわからないが、そもそも楓の発情期は軽く、抑制剤さえきちんと飲んでいれば外に出ても問題はない。だから何も心配をする必要はないのだ。
(でも、なぜ……)
暫くして漸く冷静な思考回路が戻ってくる。相変わらず抑制剤のよく効く身体だ。しかし思考が戻ってくると同時に疑問が浮かび上がる。
確かに楓の発情期は不定期だ。しかしいつもなら少し熱っぽいだとか、身体が重いなどの予兆があった。それになにより、つい一週間ほど前に発情期を終えたばかりだ。なのに今日、急に発情期を迎えた。
(力の強いアルファに接触したからだろうか)
アルファに接触しただけでは発情期は誘発されない。そんなことになれば、そもそも悠と交友関係を結ぶことなどできない。悠もそれなりに力の強いアルファだ。その悠にも誘発されたことはないから楓は安心しきっていたわけだが、先程の彼は悠よりも更に力の強いアルファなのだろうか。
鎮まりつつある身体を引きずるようにベッドへと近づき身を投げた。ボフリと柔らかな布団が身体を受け止めてくれ、緩やかな眠りの中へ誘われる。このまま眠ってしまえば、スーツはぐ
しゃぐしゃになるであろうし、風呂にも入っていない。それでも抑制剤の副作用もあってどうにも身体を起こす気にも、閉じようとしている瞼を持ち上げる気もおきない。明日は休みだ。もういいだろう、と楓は逆らわずに眠りに身をゆだねた。
もう二度と会うことはないだろう。そう思ったのに、アルファの彼と翌日も会うことになる運命だと、穏やかに眠る楓は知る由もなかった。
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