愛馬と自分しかいない、静かで穏やかなこの時の流れに、リュシアンは半ばほどまで読んだ本をそのままに瞼を閉じた。ふわりと風が頬を撫で、長い髪を遊ばせる。
静かだ――。誰もいない。
リュシアンが仕えるべき君主の一人である王妃シェリダンは静寂を好めど独りであることは望まない。どちらかといえば人の側にいたいという方だ。だがリュシアンは違う。リュシアンは静寂を好み、そして人との関りを絶ちたいと願う。
人は――権力が絡む城の中であれば尚更に――偽りを見せるものだ。平気でその口から偽りを紡ぐ。笑顔とお世辞に隠された本心のどす黒さが、笑顔で紡がれる優しい偽りが、リュシアンは嫌いだった。顔色ひとつ変えず嘘をつく人間が、何より恐ろしかった。それがどんな理由であれ。
人々の喧噪がまったく聞こえないこの場所でならば、リュシアンは安堵の息をつくことができる。心地よい身体の重怠さに身を任してしまいたいが、軍人ゆえに優れた耳は遠くに響く馬蹄の音を感じ取っていた。馬を走らせているわけではない、ゆっくりとしたその足音。それが真っすぐにリュシアンの方へと向かってくる。嫌な予感がした。
「寝てるの?」
柔らかな声が落ちてくる。眠ってなどいないとわかっているくせに、そうやって問いかけてくる声が煩わしくて仕方がない。
「なぜここに? 晩餐の誘いは断ったはずだ」
瞼を上げることなく冷たい声音でリュシアンは言う。瞼が開かれずともリュシアンが睨みつけているとわかっているだろうに、彼はクツクツと楽しそうに笑った。
「たまたま俺も休みだったからね」
答えになっていない、と言いたいところだが、言ったところでのらりくらりとこの調子で躱されるのはわかりきっているため、リュシアンはため息一つを零すにとどめる。そんなリュシアンの側に、馬から降りたリオンは腰かけた。ほんのわずかに肩が触れる程度の、その距離。それが定位置だ。
「去れ。お前が休暇だろうとそうでなかろうと私には関係ない」
にべもない。しかし常にこの状態であるリュシアンに一歩も引かないのがリオンという男だ。
「いいじゃないか。邪魔はしない。ほんの少しここに居させてほしいだけだ」
嘘だ。そんな言葉を簡単に信じるほどリュシアンはお人よしでなければ愚鈍でもない。嫌に胸がざわつく。
否、これは嘘ではない。リオンは嘘をついているわけではない。本心をぼかした言い方をしただけだ。
嘘じゃ、ない。だが――煩わしい。
「もういい。リオンが去らないのならば私が離れる」
せっかく、心地よい空間に浸っていられたのに。そう思うことにわずかな罪悪感を覚えるのは、リオンの考えることがわかっているから。でもどうしても煩わしくて、リュシアンは本を片手に立ち上がった。その姿を、リオンは座ったまま見つめている。ジッと、射貫くような、それでいて柔らかい茶の瞳。
「本当に晩餐に来ないの? 俺とリューの休暇が被ることなんてそうそう無いのに」
確かに、二人とも要職についているため忙しい身だ。だがかつては政務に忙殺され屋敷に戻ることのできない日も少なくなかったリオンは、シェリダンが王妃になってからは少し余裕が出たようで毎日屋敷に帰ることかでき、休暇もある。シェリダンは有能だが、宰相補佐よりも王妃の方が動きやすいのだろう。いかに正しくとも権力が無ければできないことも、ままある。
時間ができる度にリオンはリュシアンにやれ晩餐だ、やれお茶だと誘ってくるが、リュシアンの方はその度に夜勤だ会議だと言って断り続けてきた。だが今回はアルフレッドが与えた休暇。仕事だという理由は使えず、それ以外にリュシアンが理由を持たないこともリオンは知っているのだ。だからだろう、今日は諦めずに誘ってくる。
「行く必要がどこに? お前もせっかくの休暇なのだから私なんぞに構ってないで、好きに満喫したらどうだ。お前が望むなら多くの者がお前の為に時間を割くだろうに」
それこそ、リオンが望まなかったとしてもご令嬢方が放ってはおかないだろう。何を言っても靡かないリュシアン相手に晩餐だお茶だと誘うよりも、そちらの方がリオンにとってははるかに有意義であろうに。だがリオンはわかってないな、というかのように肩をすくめた。
「俺はご令嬢方と自慢話や色恋話をしたいんじゃなくて、リューと普通にゆっくりと話したいんだけど」
いつの間にか真っ赤に染まった空を背に、リオンは笑みを浮かべてリュシアンを見ている。わかっている、リオンの本心なんて。彼は優しいから、ひたすらにリュシアンを気遣っているのだ。わかってはいるが、どうしてもリュシアンには煩わしくて、気持ちが苛立ってしまう。このままでは理不尽に怒鳴ってしまいそうで、リュシアンは足早に愛馬に近づきひらりと騎乗した。
「不要だ。……リオン、時は流れた。もう私を気に掛ける必要はない。幼馴染として何かをしなければならないと思っているのなら、そんなことは考えるな。お前はお前の生きたいように生きればいい。私に縛られる必要はない。確かにお前は私の幼馴染だ。だが、それだけだ」
リオンの応えを聞きたくなくて、リュシアンは愛馬の横腹を蹴った。その合図に愛馬は駆けて行く。
「生きたいように生きているんだけどね、これでも」
背中に投げられた言葉は、リュシアンの耳に届くことはなかった。愛馬の駆ける音、吹き付ける風だけを感じて、だというのに波立った心は治まる気配がない。
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