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「青い空まで飛んでいけ」
あの日、あの遠い夏の日に僕が見上げた夏空は、本当に呆れるくらいに広く、遥か彼方まで続いていて、とても遠かったのを覚えている。その時の僕は、なぜかそこにも簡単に手が届く気がしていたんだ。
夏の日差しが身を焼くたびに、僕は思い出す。
彼女の声と、その一挙手一投足をまるで脳内でディスクを再生するかのようにいとも簡単に僕は取り出すことができた。
あの日の彼女は笑っていたけれど、その笑顔の意味を理解するのは大人になってからだった。もしかしたら今もまだ、本当に理解はできていないのかもしれない。
「準備はいい?……それじゃ、さん、にい、いち、発射!」
彼女の合図とともに僕がスイッチを押し込むと、ペットボトルのロケットは勢いよく水を噴出しながら空高く宙を舞っていった。キラキラと日差しに煌く涼しげな軌道を描き、どこまでも広がる青い空に果敢に挑んでいく。
僕は彼女と並んで額に手をかざし、その軌道をいつまでも見つめていた。
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僕は今、宇宙航空関係の大学院でロケットエンジンに関わる研究をしている。いや、していた、と言うべきか。修士論文審査も無事に終わって、あとは卒業を待つだけとなっていた。とはいえやらなければならないことは山のようにあり、それに追われる毎日を過ごしている。
僕はこれからロケットの開発・製造を行う民間企業を立ち上げるからだ。
定款認証、登記、税務署への各種届出等々書類準備だけでも大仕事で、ついこの間まで修論にかかりきりだったのが今度は申請書の山と格闘している。ただ書類上で会社を立ち上げるだけでも費用はかかるけれど、一つの会社、しかも製造業を立ち上げるとなれば、初期投資だけでもとんでもない額になる。何事においてもそうだけど、一番のネックになるのはお金の問題だった。
いまの時代、お金を集めるのであればクラウドファンディングという手段もある。おおざっぱに言えば多数の人たちから少額の出資を募り、その額に応じてなにがしかの物を返礼として送付する仕組みだ。日本でもいくつかの事業者があり、手数料を取るかわりにプロジェクトをサポートしてくれる。僕も一つの手段として検討したのだけど、今の段階では個人で対応するには限度があると判断して別の手段を取ることにした。
そうは言っても選択肢はあまりない。結局僕がやったのは地道な出資のお願いだった。事業計画書を作りプレゼン資料を準備して、学会や研究会への参加で手に入れたコネを使って出資してくれそうな企業へ手当たり次第にアポを取り、プレゼンを申し込んだ。
多少の研究実績はあるものの、それとビジネスとは別の話だ。どこの馬の骨とも分からない若造にぽんと大金を出してくれるような奇特な人間が大勢いるならば、この世界はもう少し生きやすくなっているだろう。ひたすら門前払いを受け続け、それでもめげずに企業訪問を続けて、ようやく面談をしてくれるところが一、二社ある程度。
他の学生よりも学会発表の経験は積んでいたつもりだったからプレゼンには多少の自信があったのだけど、実際にプレゼンをさせてもらって実感したのは当然ながら学会発表と企業に対するプレゼンはまったく違うということだった。
学会発表で話を聞いてくれるのは同じバックグラウンドを持つ研究者たちだし、事前に要旨(アブストラクト)を見て多少は興味を持って聞きに来てくれる。話を聞いてメリットがあるとは必ずしも言えないけど、デメリットがあるわけでもない。
一方で出資を募るためのプレゼンはまったく興味のない人たちに、リスクを取ってお金を出してもらうのだ。最初の一分で興味を持ってもらえなければその時点で終了だった。
「実績もない奴に金をだせると思っているのか」
「ビジネスは博打じゃないんだよ」
「社会人経験もないのに会社を立ち上げるなんてできるのかね」
そんな言葉と共にひたすら拒絶される日々に正直なところ普通に就職した方が楽だろうと思ったこともある。
だけどそんな時に僕がいつも思い出すのはあの青い空と、それに向かって思い切り伸ばした手のひら、そして空を見上げる彼女の横顔だった。
歯を食いしばりながら企業行脚を続けること半年。ある計測機器メーカーの社長が初めて僕の取り組みに興味を持ってくれて出資の約束をしてくれた時には、すでに就職活動の時期をとっくに過ぎていて、僕には会社を立ち上げるしか道は残されていなかった。
資金の目途がついた所でやっと実際のビジネスを行うための準備に取り掛かる。製造業には場所と設備が必要だ。だけど最初から十分な設備を準備できるはずもなく、しかもロケット製造用の用地と設備なんてそこらに転がっている訳がない。廃業予定の町工場を格安で借りる算段がなんとかついたのが昨日の事だった。
慌ただしく過ごしているうちに気がつけば大学院の卒業も間近に迫っていたある日、大学構内の実験棟に続く廊下を歩いているところで担当教授から声を掛けられた。
「やはり大学に残るつもりはないのかね、棚橋くん」
教授からは以前から大学に残らないかと何度も誘いを受けていた。研究テーマも魅力的だったし、学会の場で第一線で活躍している研究者とディスカッションすることも刺激あふれる時間だったから、その選択肢に心動かされていた時も少なからずあった。だけど僕はもう後には引けない。
「すいません教授。そう言っていただけるのは大変ありがたいのですが、やりたいことがあるんです」
この答えを返すのは何度目だろうか。それでも誘いを続けてくれるくらい僕を買ってくれていることについてはただただ感謝するほかない。小さくため息をついて首を横に振りながら、教授も同じように反応を返してくる。
「そういう人間にこそ大学に残ってもらいたいのだがね」
「ありがとうございます。今度新しく立ち上げる会社でも大勢のエンジニアが必要です。大学とも協力してやっていきたいと思っていますので、今後ともよろしくお願いします」
深々と一礼してからその場を辞する。教授はそれ以上何も言わず静かに腕を組んで僕を見送っていた。
長い廊下を歩きながら、改めてさっきの会話を思い返す。この期に及んで決心を変えるつもりはなかった。大学で研究を続ける、JAXA(宇宙航空研究開発機構)などの研究開発法人に入る、JAXAなどにロケットの部品を提供している大手の重工業メーカーに就職する。ロケットに関わることの選択肢はいくつもあったけれど、会社を自分で立ち上げることが最もやりたいことを実現できる手段だと僕は考えた。
ロケットの打ち上げは一大事業だ。当然一人だけでできることではなく、多くの技術者、それをサポートするスタッフ、そして潤沢な資金が必要になる。そのためには大きな組織を組み上げる必要がある。しかし僕は単純にロケットを作りたかった。もっと言えば、ロケットを作ってその発射ボタンを自分の手で押したかったのだ。それは大きな組織を構成する末端の一員、という立場では達成することがひどく難しいと思われた。
だから僕は小さな組織を作ることにしたのだ。エゴだという事も良く分かっているつもりだ。結局のところ、僕が宇宙航空関係に進んだのはそれが理由だ。
僕はあの夏の日の発射ボタンを押したときの感触をずっと忘れられずにいた。僕はずっとあの夏の日に捕らわれたままなのかもしれない。