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夢日記は起きた瞬間が勝負である。
どれほど鮮烈な夢も、起きてすぐに書き留めないと砂のようにさらさらと記憶からこぼれ落ちて、後から思い出すことが困難になるからだ。
枕元に筆記具を備え置き、起きざまに内容を書きつけ、学校や会社から帰宅してから殴り書きされた断片的なメモを元に内容を復元していく、というのが私の夢日記の作法だ。
それでは夢日記は覚醒時の創作なのだろうか?
実に微妙なところだが、どれほど長い夢であっても起きた瞬間はただ一点の印象に「圧縮」されており、それをメモから書き起こす際に「解凍」しているというのが実際のところなのである。(それを「創作」というなら「夢日記」は創作である)
そもそも「夢」とはいったい何なのだろう?
古之真人、其寝不夢。(いにしえのしんじん、そのいぬるやゆめみず)
「荘子」大宗師篇所収の名句である。
私は従来、これを「真に精神安定して憂いがなければ、寝ても夢など見ない」と理解していた。
ところが明治期の禅僧である竹田黙雷氏は、釈迦も孔子も思いっきり夢を見たエピソードがあるとした上で「真人不夢」とはつまり、「ものごとの真実を見極めた人物は、今さら夢と現実の区別などしない」という解釈を提示する。(そういえば当の荘子も別章(斉物篇)では「蝶になった夢を見た」などと言っている)
室町時代に書かれた「夢中問答集」の跋(後書き)にも「寝ている時に見る夢と、起きている時に見る夢に違いはあるか?」との問いがある。
なるほど、「夢も現実も『夢』である」と気づいて初めて「目覚めている」といえるのか。
ともあれ、夢は純粋に面白い。
夢を医学的に分析しようとしたフロイトやユングは言うに及ばず、日本でも明恵上人、夏目漱石、横尾忠則など、たくさんの作家、著名人たちが夢日記を書いている。
今ここに、私が過去二十八年の間に見た夢の記録百三十五話を収録した。
長短バラバラ、内容は支離滅裂であるが、読み物としてお楽しみいただけたならば幸いである。
二〇二四年五月
文野潤也