……くだらないエゴベースの表現者にとって、他者の存在は、究極的に自分のエゴを肥やすための餌にすぎない。憧れられたがっている人間(それによって自己のナルシシズムを完成させようとする人間)が、あの手この手を使って自分に憧れる人間を獲得しようとしている。表現活動の次元を一階層低くしてSNSの世界を取り上げると、あれなどは憧れられたがり屋と憧れたがり屋の柔道場であって、連中は年がら年中サイバー道場で「憧れ」を巡って組み手し続けている。自尊心の膨れ上がった憧れられたがり屋どもが、腹を空かせた自尊心の足りない憧れたがり屋の鯉どもに、イメージの麩菓子(ふがし)をまき続けているのだ。
……表現の自由はあった方がいい。だが、自由が赦される場所でこそ、人は自発的に規律を持つべきだ。そうした規律がない時に、自由という言葉は濫用され、放縦という言葉に貶められる。
仮説通りバカ九十九の正気一の比率だとしたら、芸術家にとっての最初にして最大の問題は、「どちらの層に向けてギフトを贈るのか」という問題である。味覚もへったくれもない耳クソの詰まった九十九匹の鯉どもに向かって、メッキを塗りたくって香料をぶっかけただけの実は味わいも何もない麩菓子をばらまこうとするのか、それとも知性と感性を磨き美と真実を探求する態度を備えるまともな人間に向けて贈ろうとするのか。鯉どもは池にまかれたものだったらそれがなんだろうと食っちまう。スカスカの麩菓子だろうと、栄養もへったくれもないポテチだろうとジャガリコだろうと、なんなら石ころだって食っちまうぞあいつらは。その時その時てめえの惨めったらしい胃袋の内側の空虚を埋められるもんなら、なんだっていいんだ、あいつらにとっては。
どんな間抜けからだろうとかまわずウケを狙って数を稼いでとにかく量的に憧れられたいのか、それともまともな頭と感覚を持った人間と差し向いで深く交感したいのか。ちっちゃくなる前の化け物の頃のカオナシみたいに、偽物の黄金をばらまいてバカどもを狂乱させていたいのか、それとも千尋が本当に欲しいものを与えられるような人間になろうとするのか。本当に向かい合ってくれる百分の一の人間の期待を引き受け、堂々と自分の心を表現できる人間でありたいのかどうか。
憧れられたがり屋のナルシストどもは、その問いを鯉どもがバシャバシャのたうち回る泉に映る、いじめられたサルみたいな自分の顔にたずねてみるがいい。
表現者が真の芸術家であるかどうかは、たかってくる鯉の数の多寡で決定されるものではなく、作品に向き合う態度、そして作品を届ける相手に向き合う態度の純粋さによって決定される。
私が書くものは全て、「本当のこと」と「美しいもの」を求める読者への手紙である。ソファで寝っ転がってスマホをぴっこらぴっこらいじってるポテトチップス喰らいのクソ野郎どもの無理解と呪詛《じゅそ》と罵倒を九十九回浴びようとも、本当のことを求める心を持つ読者ひとりにまっすぐ向かいあうことができるならそれでいい。私はそういう読者だった。書物をひもといては預けた期待を腑抜けた文章に何度も裏切られながら、それでも自分の期待に応えてくれるいくつもの手紙をこの世界から受けとってきた。それらの手紙の中には、五百年前に書かれたものもあれば、二千五百年前に書かれたものもあった。私は二千五百年の間手紙を待ち続ける、ひとつの孤独な魂である。
……非=真面目の精神はあらゆるものを真に受けない。精確には、あらゆるくだらないものを真に受けず、真に真面目さを発揮すべき時と場所を見定め、無駄に真面目さを使って精神を消耗させることを防ぎ、その時のために有限なる心的エネルギーを節約する。
……人間はまずもって自分の力で自分を守らなければならない。人間は想像力を鍛え上げ、その想像力を使って工夫を凝らし、あらゆる手を尽くして自分の心を守らなければならない。私たちの心は生ものであって、それが生ものである限り、保存方法を誤ったら心は腐るのだ。そうして誤った保存方法でバカ真面目にやり続けた結果心の凍った人間になるとか心の腐った人間になることは、自分自身に対しても、自分のそばで生きる他者に対しても、最悪の害悪なのだ。だから、どんな手を使ってでも、自分の心は自分で守らなければならない。私は自分のやり方が正しいなどと言うつもりはない。おそらく私のやり方は間違っているだろう。でもそんなことで俺が怯むと思うなよゾンビ野郎ども。なぜなら間違っているのは野郎どもの方も同じで、俺たちはお互い様だからね。今ここで問題なのは、いったい自分という人間が、どちらの間違いを選ぶのかということなのだ。私なら自分の心を守るための間違いを選ぶよ。おい糞ゾンビ野郎ども真面目にしっかり考えろよ。いっておくけどこれは「倫理の問題」なんだからな。
(『怒りについて』本文より)
……心に何か迷いが生じた時は、いつも師匠たちのもとに帰ります。
今日はモンテーニュのエセー第二巻をひもときました。そして「怒り」の感情の取り扱いについて書かれた文章を読み、ぷぷぷっ、と笑わされ、ちょっと気分がよくなりました。モンテーニュ先生いわく、「むしゃくしゃした時に感情を抑え込むくらいなら、八つ当たりぎみにでも召使いのほっぺたにビンタをくらわせた方がマシ」とのことです。コンプライアンスもクソもなく、滅茶苦茶なことを書いています。
カズオ・イシグロの英語の発音が好きで、よく対談やインタビューを聴くのですが、彼が英国人の性格を揶揄《やゆ》してChronic emotional Constipationと表現していたのを聴いたことがあり、以降気に入ってよく使っています。Chronic(慢性的)という語はもしかしたら私が勝手に追加したものかもしれません。
「感情の慢性的便秘」とでも訳せるものと思いますが、この表現は日本人一般に対してもぴったり当てはまるように感じます。いや、むしろ日本人の方がより深刻な便秘に悩まされていると思う。というのも、英国人にはユーモアを尊ぶ文化があり、心のおならというか、まだガス抜きできる余地がある。ところが日本人は笑う感情さえ抑え込む傾向があります。これは娑婆で長年凌ぎをけずり、ここ二年間くらいはいわゆるコームインの中に紛れ込んで働いている私の、日本人一般に対する揺るがない印象です。