「地下文學者」の使命
地下文學者とは、地上にべったりと張り巡らされた表現規制を忌避して「地下」の底に潜りこみ、徹底して純粋かつ自由に「文學の言葉」を表現する文學者の存在様式です。 文學商業誌を主体として活動する才気豊かで・教養の深い・お上品な地上の文學者達とは袂を分かち、地下文學者は、文學的素養も興味もへったくれもないような俗衆をも対象とし、仮借もなければ希釈もしない「フルスイングの文學の言葉」を、真正面から語り続けます。
私が配るしおりに掲げられる《一切衆生悉有文學性》という言葉は、仏教の《一切衆生悉有仏性》(生きとし生けるものに仏となる素質が備わっている)のもじりで、半分冗談の思いつきから生まれた他愛もない私の造語です。しかし、あらゆる冗談がそうであるように、この冗談も侮ってばかりはいられないものです。 年がら年中、暇さえあれば一抹の疑問もおぼえずにスマホでゲームをいじくったり動画を見てばかりいるような俗衆には、とてもじゃないけど文學の素養(平素から養いたくわえている教養)があるとはいえません。しかし、たとえ素養がなかったとしても、共通のハードウェア=肉体=感覚器官を備えている限り、彼らにも文學の言葉を感受する素質(生まれつき備えている性質。本来もっている性質)は等しく備わっています。その文學的素質は決して失われてしまったのではなく、多勢を占める安易で軽薄な文化に与した習慣にねじ伏せられ、不活化され、眠っているだけなのです。このことは私が娑婆でながく生きてきた中で、あまたのゾンビ野郎どもとはげしくぶつかり合いながら、そしてすれ違いながら、身をもって実感してきた事実です。すれ違い続ける心が、ほんの一瞬の間だけ触れ合うことがある。そしてその次の瞬間にはまたお互いに通り過ぎてゆく。だから結局はお互いにわかり合うことなく別離することになるのだが、その一瞬だけはふたつの心はたしかに触れ合って、お互いの心の持つあたたかささえも伝え合うことができる。
地下文學者は、もとより熱心に文學を志向する読者の輪に閉じこもることなく、地上の文學界の言葉が届かない境域に生きて言葉を扱う、あらゆる人々に向かって文學の言葉を贈ろうとする者です。そうして人々の内に本来備わり眠っている文學性を(いささか乱暴な手を使ってでも)揺さぶって呼び起こすことが、地下文學者の抱える文學的な使命なのです。