秋 藤野亜希の場合
「どうぞ」
店員さんがさりげなく私に差し出してくれたのは、綺麗に磨かれた銀色の器。
「うちは使わない人の方が少ないんで、大丈夫ですよ」
私が戸惑ったのに気付いたのかそう言ってから、また忙しそうに厨房へ戻ってしまった。
周りを見れば、入った時にはガラガラだったカウンター席も他のお客さんの姿で埋まっている。奥に座敷席もあるようだが、カウンター席は十席ほどの小さな店内なので、当然隣の人との距離も近い。周りを気遣って躊躇ったが、店員さんの言う通りみなひとつずつ目の前に据えている。客層は様々で一人飲みの人もいれば、夫婦らしい姿や、常連どうしで会話が弾んでいる人もいるが、総じて落ち着きのある、いい雰囲気のお店だと思った。
アルバイトだろうか。さきほど話しかけてくれた若い店員は忙しげに動き回りながら、客のちょっとした動作にも目を配っている。良いサービスマンだ。そういえば先程から、私が声をかけるまえにお代わりを尋ねられ、ついつい酒が進んでしまっている。酒は強いほうだけれど、一旦落ち着かないと帰路があやしくなってしまう。明日もあるというのに。
チェイサーを口に含むと、冷たい水がじんわりと広がりすぐに体温と同化していった。
自分の酔いを自覚して視線を手元に落とす。
手のひらに収まるくらいの紙の箱が置いてある。かつては毎日手にしていたはずのパッケージがなんだか懐かしく思えた。包装を外して中身を取り出す。体が覚えている所作で自然と口元へ運ぶ。来る途中で買った百円ライターで火をつけて、大きく息を吸い込んだ。
一気に肺に流れ込んでくる匂いと味に満たされて、私はしばし恍惚感にひたった。
もう吸っても大丈夫。
そう言われてからもしばらく手を伸ばすのは怖かったけれど、今日からまた少し吸わせてもらうことにする。この匂いはかつて私の一部だったのだ。
そうだ。これは、私の再出発のための一本だ。
そう思いつつあっという間に吸い終えてしまい、その余韻を閉じこめるように酒を飲んだ。
二本目に火をつけると、今一番会いたい人の笑顔が脳裏に浮かんだ。
その日、私は煙草を吸った。
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