こちらのアイテムは2023/11/11(土)開催・文学フリマ東京37にて入手できます。
くわしくは文学フリマ東京37公式Webサイトをご覧ください。(入場無料!)

その日、私は煙草を吸った。

  • 第一展示場 | R-08 (小説|短編・掌編・ショートショート)
  • そのひ、わたしはたばこをすった。
  • 夏乃空
  • 書籍|文庫判(A6)
  • 46ページ
  • 400円
  • 2023/11/11(土)発行
  • その日、私は煙草を吸ったー

    主人公のアキはホテルで働いている。
    ヘビースモーカーだったが、あることがきっかけで煙草を吸うのをやめた。
    彼女が再び紫煙を燻らせる日、「その日」は一体どんな日なのか。

    人生の岐路になる「その日」のことを描いてみたい、と思って書き上げた連作短編三作目です。

    よろしくお願いします。

    冒頭 試し読み📚
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    秋 藤野亜希の場合

    「どうぞ」

     店員さんがさりげなく私に差し出してくれたのは、綺麗に磨かれた銀色の器。

    「うちは使わない人の方が少ないんで、大丈夫ですよ」

     私が戸惑ったのに気付いたのかそう言ってから、また忙しそうに厨房へ戻ってしまった。

     周りを見れば、入った時にはガラガラだったカウンター席も他のお客さんの姿で埋まっている。奥に座敷席もあるようだが、カウンター席は十席ほどの小さな店内なので、当然隣の人との距離も近い。周りを気遣って躊躇ったが、店員さんの言う通りみなひとつずつ目の前に据えている。客層は様々で一人飲みの人もいれば、夫婦らしい姿や、常連どうしで会話が弾んでいる人もいるが、総じて落ち着きのある、いい雰囲気のお店だと思った。

     アルバイトだろうか。さきほど話しかけてくれた若い店員は忙しげに動き回りながら、客のちょっとした動作にも目を配っている。良いサービスマンだ。そういえば先程から、私が声をかけるまえにお代わりを尋ねられ、ついつい酒が進んでしまっている。酒は強いほうだけれど、一旦落ち着かないと帰路があやしくなってしまう。明日もあるというのに。

     チェイサーを口に含むと、冷たい水がじんわりと広がりすぐに体温と同化していった。

     自分の酔いを自覚して視線を手元に落とす。

     手のひらに収まるくらいの紙の箱が置いてある。かつては毎日手にしていたはずのパッケージがなんだか懐かしく思えた。包装を外して中身を取り出す。体が覚えている所作で自然と口元へ運ぶ。来る途中で買った百円ライターで火をつけて、大きく息を吸い込んだ。


    一気に肺に流れ込んでくる匂いと味に満たされて、私はしばし恍惚感にひたった。

     もう吸っても大丈夫。

     そう言われてからもしばらく手を伸ばすのは怖かったけれど、今日からまた少し吸わせてもらうことにする。この匂いはかつて私の一部だったのだ。

     そうだ。これは、私の再出発のための一本だ。

     そう思いつつあっという間に吸い終えてしまい、その余韻を閉じこめるように酒を飲んだ。

     二本目に火をつけると、今一番会いたい人の笑顔が脳裏に浮かんだ。

    その日、私は煙草を吸った。


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