夏 佐山那月の場合
「うわ、冷た」
先程までの晴天が嘘のように、一粒ポツリと落ちてきた雫があっという間にざんざん降りになる。視界の先に屋根がついたバス停を見つけて逃げ込んだ。
通り雨だといいんだけど。ふと少し向こう側を見やると、すぐそこに明るい気配を感じて少し安堵する。備え付けの古い木造のベンチに腰を下ろし、ペットボトルのお茶で渇きを潤した。
改めて誰にも邪魔されない空間の心地よさを噛み締める。
久しぶりにつけた腕時計に目をやった。もうすぐ十五時になろうといったところ。すでにほんのりと肌に腕時計の輪郭が焼き付いていた。
明日になれば、あの日焼け特有のヒリヒリと痒いような痛いような感覚になるだろう。そんな感覚はいつぶりだろうか。過ぎ去りし日の、かつて白球を追いかけていた日々を懐かしく思う。
ベンチに背中を預けてぐっと身体を退けぞる。と、視線の先に貼られた色褪せた広告が目に入った。
「大切な日に。大切な人に。」とキャッチコピーが書かれた花屋の広告。中央には一輪のバラを持った手の写真が写っている。もう何年も前のものだ。こんなところで出会うとは。思わずじっと見つめていると、治ったはずの怪我が痛むような気がして、くっきりと残る手の傷をそっと押さえた。とっくに吹っ切れたと思っていたのに、身体の方は未練がましく覚えているらしい。
どっちにしろ、もう仕事には戻れない。そのことを頭の中で何度もなぞって理性ではしっかりと理解できている。それを象徴するかのように傍らで輝く相棒に目をやって深呼吸をして感傷的になった自分の心を落ち着かせる。
その日、俺は自転車に乗った。
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