餓えていた。
闇の中、ただ無作為に手を伸ばす。何をも掴めるものはない。そも、外に向けて伸ばしたそれが、己の腕であるという確証を得ることすらできないのだ。
立ち上がらねば。だがそれが適わない。歩くとは一体何であっただろうかと、そう己に問いかける。脚だ。腕ではなく、脚を動かすのであった。はて、それでは脚とは何であったろう。首を傾げようとして、傾げる首がないことに気づく。
餓えている。餓えとは何か。渇求である。だが何を求めているやら、それが己れにはわからない。糧を得なくては。糧を得るとは一体何だ。食むのだ。では何を。
次から次に溢れ出でるそれらの問いに、応えを返している者は何か。己れである。では、──己れとは何か。
燃え上がるような焦燥が、身の内をのたうち回っている。獣じみたその衝動が、もどかしさであることには思い至らない。だがそれは、右も左も、他も己も区別がつかぬまま、ひたすらに地を這った。
そうこうしているうちに、徐々に己れが練り上がる。
こんなにも餓えるのはあの頃以来であろう。そうだ、己れは餓えを知っている。何かを食まねば死んでしまう。
糧を得なくては。いや、違う。己れは糧を与える身分であった。地を這い、他者に頭を垂れ、慈悲を乞うた記憶などあってはならぬ。己れは、──己れは。
「ア、アァ、ラタ、マ、──」
引き攣れたその声が、不意に喉から零れ落ちた。それはまるで瑞々しい青葉から垂れた朝露のように強く煌めき、──冷えた心に血を通わせる。
どくりと鼓動が脈打った。どくりどくりと鳴る音は、大地から響くかの如く彼の鼓膜を震わせて、存在を知らしめている。それでようやくこの男は、これまですっかり周囲の音を忘れていたことに気がついた。
忘れていたのはそれだけではない。男はのそりと身体を持ち上げ、己が人であったことを自覚した。その口は人々に指示を与え、行いは畏敬の念を抱かせ、──ああ、そうだ。己れは、俺は。
「俺は、──萬景国守、稜賀、新玉、」
音を立て、枯れ葉の山へ立ち上がる。耳障りな乾いた音。それが尚更この男に、餓えを自覚させていた。喉が渇いた。腹が減っている。だが彼の餓えは、渇求は、そうした肉体的な欲望では留まらぬ。
ゆらりと焔のように揺れる衝動が、男の胸を焦がしていた。その正体が何であるのか、これは問いかけるまでもない。
「赦さない、……赦すものか、」
身が形を成すのと同時に、曖昧に揺れていた思考が、記憶が、甦る。
領土視察の道中であった。萬景の都、花と栄えし凱玲京へと帰るべく、桑黄山酉峠道へ踏み入ってしばらくの頃のこと。完全なる不意打ちであった。一行を襲った、何者とも知れぬ凶賊の影を、彼は、──新玉は、その目にしっかと焼き付けていた。
ひとつに結った黒髪が、夜風に流れ融けてゆく。血のこびりついた衣服を無造作に羽織り直すと、彼は刃を突き立てられたはずの己の胸部に手を当てて、低い声でじわりと嗤った。
「これは誰の企てだ。内の敵か、外の敵か、──なんにせよ、俺の敵には違いない。ああ、随分と無様なことよ。天下の萬景王が、敵に後れを取ろうとは」
腹の内から嗤うのに、燻る焔は消えやしない。火は風に煽られて、より一層に勢いを増してゆく。
「戦いだ」
ぽつりとひとつ、呟いた。
「ああ、そうだ──、戦わなくては。俺は黄泉路に背を向けて、再びこの地に立ったのだ。戦わなくては。帰らねば。導かねば。俺の領地を、栄えし我が萬景の地を、食い荒らされてたまるものか、──」
暗闇であった。月のない夜であるのだろう。なんにせよ、こんなにも深い闇の内に身を置くなど、久しくないことであった。彼は衣服の襟元を正し、ふらりと周囲を見回して、──口元に笑みを浮かべた。
金色に光る何かがあった。闇を穿つ穴かのように、その金色だけが彼の視界に、ぽかりと浮かんでいるのである。それに気づくや否や、彼の渇求がまた疼く。
(これを喰らえば、少しは餓えをしのげるだろうか、──)
手を伸ばす。今度ばかりは手応えがあった。
それは卵であった。何故だか彼にはそうとわかった。今にも生まれ出ようと、躍動する熱がそこにある。心地よい熱。──懐かしい熱。彼自身からは失せてしまったその熱が、しかし手の内に息づいている。
「おまえもきっと、生きたかろうな。……だが、」
そこに生命を感じながら、手放すようなことはせぬ。
「黙って俺の糧となれ」
有無を言わさず、そう告げた。