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神成り鱗と夜刀鏡

  • D-09 (小説|ファンタジー・幻想文学)
  • かみなりうろことやとかがみ
  • 里見透
  • 書籍|文庫判(A6)
  • 360ページ
  • 900円
  • https://thor.hiho.jp/books/ya…
  • 2025/11/23(日)発行
  • 英雄の子×最後の巫覡

    古代倭風神語り

    大蛇封じの英雄の子である瀬名は、巡察で訪れたある里にて、この世のものとも思えぬ霊妙な舞を踏む舞い人と出会う。

    「おまえの父がしたことに、おまえが責任をとるべきだ。
    俺達でふたりで美茂呂の大蛇──、夜刀を解放する」

    瀬名にそう告げる舞い人は、神霊の力をその身に纏い、大王の支配に抗ったとされる緋隆の最後の巫覡であった。
    神霊と人とのあわいにて、その仲介たることを託されたふたりは、何を思い、何を見、何を選び取るのか。

    著者:里見 透
    表紙:匙於 ナゲル

    BOOTHにて、がっつり試し読みできるPDFを配布中です。
    https://thorsatomi.booth.pm/items/7153883


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    《冒頭》(ルビ情報を省略しています)
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     天という名の硯が穿たれ、罅われたかの如き夜であった。
     次から次に溢れ滴る墨かのように、真っ黒な雨が降り注いでいた。
     巨木を弄び、薙ぎ倒してしまうほど、強く、風が吹き荒れていた。
     そんな様子であったから、篝火を焚く邸もなく、松明すらも灯せない。それでも瀬名は闇を掻き分け、這うようにして、風雨の中を駆けていた。
     この時の瀬名は、まだ九つにしかならぬ、何の力もない幼子であった。
     だがその夜、瀬名には、何をおいても為さねばならぬことがあったのだ。
    「いやだ。俺のそばにいてよ、父さん」
     辺りの木々にしがみつき、あるいは草に縋りつき、吹き飛ばされぬよう必死であった。
     暗闇の中、瀬名はたったひとりで、父の姿を探していた。声を枯らして父を呼んだ。その声は発するそばから風に攫われ、虚空に消えてゆくのだが、それでも瀬名には、とても諦めきれなかった。
     とぐろを巻いた暗闇に、天地を穿つ雷光が射した。
     刹那に照らし出されたのは、一条の川。
     建日の国を貫くように流れる雄大な川、美茂呂川。日照り続きで干上がりかけていたはずのその川は、瀬名が知る姿とは、打って変わった様相を呈していた。
     轟々と濁流が渦巻き、川岸を抉りながら奔る川。その奔流のただ中から──、水柱が裂けるように立ち上がり、巨大な影が姿を現した。
     白銀の鱗を煌めかせ、川の流れを押し割ってもたげられたのは、太い鎌首。
     眉月のように煌めく牙。二又に裂けた舌先。赤加賀智のように熟れた赤い目。
     森羅を貫く神木のごとき巨躯をくねらすそれは、蛇であった。
     川そのものの怒りを形にしたかのような、荒ぶる禍つ霊の顕現であった。
    (──大蛇)
     幼い瀬名の胸は瞬時に恐怖で凍りついたが、それでも、退くことはできなかった。
     大蛇に対峙する位置に、ついに、父の姿を見つけたからだ。
    「父さん、だめだ……、行かないで!」
     世に轟いた、悍ましい神鳴りの音。
     あの夜。
     瀬名の父──、神務司に属する卜部であった、吉隠氏の安騎は、供も付けずにたったひとりで、美茂呂の川へと対峙した。
     人々に害をなす、美茂呂に巣食う大蛇を祓い、清めるために。
     神務司の同僚にさえ、父は動向を告げなかった。あとになってそのことを、「手柄を独り占めしたかったのであろう」と揶揄する輩はいくらもいたが、実情はわからない。ただこの日、父は普段通りに務めに出かけ、そのまま夜になっても、邸へ戻ることはなかった。
     日中から降り始めた雨は、次第にその勢いを増し、世を覆い尽くさんと欲するかの如き様相であった。父が勤めから帰るのを、今か今かと待ち構えていた瀬名は、雨戸のわずかな隙間から目を覗かせて、荒天の庭を見つめ続けていた。
     どうしても、父に伝えなくてはならないことがあった。けれど、すっかり日が暮れる時分になってなお、父は姿を見せなかった。
     おかしい。いくらなんでも遅すぎる。父の身に、何かあったのではないか。
     そう案じる瀬名を見て、共に邸で待つ義母は、虚ろな声でこう返した。
    「きっと美茂呂へ向かったのでしょう」
     まだ三つにもならない瀬名の弟妹は、外から聞こえる風雨の音に怯え、泣きじゃくり、義母の腕に抱かれていた。
    「あの人は、美茂呂にご執心だもの」
     どこか寂しげに言う義母の心中を察することは、幼い瀬名にはできなかった。
     直後、瀬名達の住む吉隠の邸へ、神務司から使いが来た。美茂呂の川に、大蛇の禍つ霊が満ちたことを、父へ知らせに来たのである。だが父が帰っていないことを伝えると、父の同僚の卜部達は、「まさか」と声を震わせた。
     嫌な予感がした。瀬名はすっかり青ざめて、卜部達が止めるのも聞かず、風雨の中へと飛び出した。父を止めなくては。そう考えたのだ。
     行かなくては。──瀬名が、父に、伝えなくては。
     父を呼び、必死に駆けて、風雨の中を藻掻き、縋り、それでもなお駆け抜けて、瀬名はようやく、荒れ狂う美茂呂の川岸に父の姿を見た。
    「──父さん!」
     声を限りにそう呼んだ。
     だが、その夜。
     瀬名は父を止めるどころか、けっして許されないことをした。
     父を見つけた刹那。瀬名の視界は、濁流に覆われていた。決壊した山津波に足を取られ、荒れ狂う美茂呂の奔流の渦へと飲み込まれたのだ。
     瀬名を呼ぶ、切迫した父の声。答えることはできなかった。既にその時、瀬名にはもはや己がどのような姿でいるのかさえ、判然としない有り様であった。
     重たい水が四方からでたらめに押し寄せて、瀬名のすべてを捩じ伏せた。何かに強く打ち付けられたが、それが岸辺か、流されてきた木か石か、或いは救いの手であったか、それすら瀬名にはわからなかった。はずみで開いた口元から、容赦なく泥が流れ込んだ。
     抗いようのない圧倒的な力を前に、痛みはもはや曖昧であった。
     その後のことはわからない。恐らく意識を失っていた。だが激しく咳き込み、泥の混じった水を吐き出しながら、次に瀬名が目を開いた時──、瀬名の眼前にあったのは、変わり果てた父の姿であった。
     父はその夜、己の身を人柱として、美茂呂の大蛇の半身を、黄泉の国への道連れにして封印した。そうして建日の国を救い、英雄と呼ばれるようになった。
     だが彼の為したことはあくまでも、祓いではなかった。不完全な封印であった。
     その場に駆けつけた卜部達は、勢いを削がれた美茂呂の川を見、その川岸に蹲る瀬名と、大蛇に無惨に喰い千切られ、肉塊と化した父の骸を見て、忽ち状況を理解した。
     吉隠の安騎は身を賭して奮戦したが、大蛇を祓うことはかなわなかった。
     彼の力量が及ばなかったためではない。身の程も知らず駆けつけた、愚かで未熟な息子の命に気を取られたがために、建日の国の英雄は、人々の仇敵たる大蛇を祓い損なったのである、と。
    (父さんは命を賭したのに、俺が、邪魔をしたせいで、……)
     涙すら流せぬまま呆然と座り込む瀬名に、駆けつけた卜部のひとりが、こう告げた。
    「この場で見たこと、聞いたこと、すべて胸の内に留めておけ。じっと口を噤んでいろ。そうするうちに、皆も忘れる。おまえも忘れろ。息子の命可愛さに、大蛇を祓う絶好の機会を逃したなどと言われ続けては、吉隠の名誉に関わるからな。……おまえとて、父の名誉を傷つけたくはないだろう」
     父の汚点にはなりたくない。瀬名はただ、為すすべもなく頷いた。
    (俺にできることは、ただ……、黙っていることだけ、)
     ひとりその場に取り残され、蹲る瀬名の対岸に、何かがちらと煌めいた。
     月の光もない夜なのに、よく磨かれた鏡の如き白銀(しろがね)に、妖しく映し出される、虚ろに立ち上がる人の影。まだ大人になりきらぬ、すらりと伸びた未熟な肢体。
     彼もまた、瀬名と同じように、何かに絶望したのであろう。そんなことを、瀬名はぼんやりと考えた。
     ずぶ濡れになった服を絞りもせず、ゆらりと一歩踏み出す少年もまた、憔悴しきった顔をしているのが見えたからだ。
     少年がぼんやりと、虚ろな目をして川面を見た。
     この世のすべてを呪うような、悲しみを宿した、昏い貌で。


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