そうして曲がった先に、「喫茶 燈台守」と書かれた看板が現れた。看板の明かりが、既に営業中であることを示している。夜の続きのようなこの時間でも、開いているのだろうか。
そっと扉に手を掛けてみる。扉は見た目より重かったが、鍵はかかっていなかった。
「いらっしゃいませ」
糊のきいたシャツを着た店員に案内され、吸い込まれるように窓際の席に腰を下ろす。レコードの音楽が微かに聞こえてくるだけで、店内はとても静かだった。音楽には疎いから、何の曲かは分からなかったけれど。
▪️「ナポリタン 」三年付き合った人と別れた。
二〇代も後半に差し掛かる今、それなりに長く一緒にいた人と別れるのは色々な意味でしんどかったけど、いっぱい泣いたりカラオケで歌ったりするうちに気持ちの整理もついてきた。昔から恋多き女だったあたしは、失恋の痛みの処理にもいつの間にか慣れてしまっていた。
今はもう、あの人の好きな曲を耳にしても、雑踏でふとあの人と同じ匂いを感じても、心が騒めくことはなくなっていた。まぁ、なんだかんだこうやっていつも立ち直れるんだよね、あたしって。
「というわけで、今日は快気祝いに付き合ってくれてありがとー! あたしの今後に乾杯‼」
シックな店内に似合わないテンションで、あたしはアイスカフェオレのグラスを高々と掲げた。少し困ったように眉を下げた美和が、気遣うような微笑で玲が、各々自分のコップを軽くぶつける。氷が揺れる涼しい音がした。
▪️「シーフードグラタン 」「いいですよ。じゃあ、注文しちゃいましょうか」
店員さんを呼び、てきぱきと注文を済ませる。店員さんがいなくなったころを見計らって、修二くんがぽつりと呟いた。
「変わりましたよね、恭輔さん」
何気ないからこそ、その一言が深々と胸を抉った。老いなんて、自分で気付いていても、他人に言われると余計に刺さってしまう。
▪️「ホットココア」※第二版書き下ろし
→逃避行の先で見つけた喫茶店で、少し雨宿りをするお話。
・試し読み
初めて訪れたのは、篠突く秋雨の日だった。
ここを目当てにやってきたわけじゃない。ただ、学校にいたくなくて、でも、家にも帰りたくなくて、あてもなく歩いて、歩いて、そうしているうちに雨が降り出して、傘を持っていないから途方に暮れていたら、このお店が見えたのだ。
看板は出ているけれど、電気は消えていた。もしかしたら、今日はもう閉店したのかも。でも、それならかえって好都合だ。今のわたしにはほっと一息つけるお店じゃなくて、この雨を凌げる屋根さえあればそれでよかったから。
▪️「アイスティー 」ストローの紙袋を破りながら何気なく呟くと、ホットケーキを頬張る智の目が輝いた。よっぽどおいしかったのだろうか。
均一なきつね色に焼かれた滑らかな表面に、乳白色のバターと黄金色の蜂蜜が淡くマーブル模様を描いている。まるで絵本に出てくるようなホットケーキを、智は綺麗な三角形に切り取りながら食べていた。
「本当そうだよ。やっぱり、大学生って自由があっていいね。あとほら、小中高のときよりも『クラス』って概念が希薄なのも、息苦しくなくて好き」
口の中のものをようやく飲み込んだ智が、嬉しそうに答えた。その言葉に内心驚きながら、俺はアイスティーを啜った。柑橘系の爽やかな香りと、若干の渋みが口に広がる。
あの日に二人で見た海のような、深い碧色。少しずつ溶けては滲むアイスクリームの乳白色は、波頭に立つ泡のよう。パチパチと割れる炭酸の音が、私には波の音に聞こえました。
「まるで、小さな海みたい」
しみじみ呟くと、息子も、クリームソーダを運んできた孫も、一瞬目を丸くしました。そうして、「母さんは詩人だなぁ」なんて二人で笑っていました。「みたい」と言ったけれど、私にとっては海そのものだったのに。
▪️「コーヒーゼリー」※第二版書き下ろし
→自分とは正反対の友達と一緒に、お互いの良さを認め合うお話。
・試し読み
和泉さんがもう一度口を開こうとした途端、注文が届いた。黒曜石みたいに光る滑らかな表面に、上品に添えられたホイップクリーム。テーブルに置いた瞬間少しだけ揺れた表面は、夜の湖にも似ていた。
スプーンが湖面に沈み込む。思っていたより強い力で跳ね返してくる。ようやく切り取った一匙は、やっぱり鉱物の欠片のようだった。
「でもその泰然自若さ? みたいなものが岸本くんの良さでもあるだろう? 私だって、この性格が結果的に研究に向いていたというだけだしさ。だからきっと、大丈夫。なんとかなるよ」
和泉さんは柔らかく言って、カップを傾けた。その言葉を反芻しながら、俺もスプーンを口に運ぶ。苦味と酸味のバランスが取れたいいコーヒーだった。豆も売ってないだろうか。
わたしが制するのに構わず、葵は手を挙げて店員さんを呼んだ。そして予定通り、チョコレートパフェとイチゴパフェを注文する。一礼して立ち去る店員さんに二人で軽く頭を下げて、わたしはそのままテーブルに突っ伏した。
「ずるいよ、そうやって甘やかして……」
「ん? 何か言った?」
「別にぃ」
そう言い返してから、ゆっくりと顔を上げて葵を見る。真新しいブレザーの制服はまだ見慣れなくて、よく知った相手のはずなのに少しドキドキする。ここがいつもの教室じゃなくて、おしゃれな喫茶店だからかもしれない。
「じゃあ、プリン・ア・ラ・モードで」
「えぇ?」
父さんの答えに、僕は思いっきり顔をしかめてみせた。すると、父さんと母さんが、びっくりしたような顔で一緒に僕を見た。
「どうしたんだい、夏樹」
もしかして、父さんと母さんは知らないんだろうか。僕はちょっと迷ってから、最近知った「決まり」を教えるために小さく息を吸った。
「だってさぁ、お父さんが甘いもの好きなんて、女の子みたいだから変なんだよ」
父さんが首をかしげて、母さんが眉と眉の間に皺を寄せたから、「みんなそう言ってるよ」という語尾が消えかかってしまった。二人ともしばらく何も言わないから、僕は少し居心地が悪くなる。
あなたはこの日、喫茶「燈台守」の扉に初めて手を掛けた。訪れたきっかけは何であっただろうか。友人に勧められたか、情報誌で紹介記事を見かけたか、あるいは、ただ目の前にあったからかもしれない。はっきりと思い出せないのも無理はない。きっかけなど些細なことなのだから。
あなたは深く深呼吸をして、扉を押した。少し重いそれは、力をこめるとゆっくりと開いてあなたを受け入れる。
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