「切符を拝見」
目の前から声がして、ふと顔を上げる。帽子を目深に被った駅員が、手袋をした白い手を差し出していた。改札の向こうは、うっすらと雲のかかる青空とその光を跳ね返す海だった。ホームなのだから線路はあるのだろう。一段下がっていて改札の手前からでは見えない。線路の向こうの海がすぐそこまであるように見える。
低い咳払い。
「あ、えっと」
俺は慌てて、自分の身体を見渡した。鞄は持っていない。いつものダボダボのTシャツとカーゴパンツ、スニーカー。ポケットには何も入ってない。
「ええっと」
頭をガシガシと掻きながら、そっと駅員の顔をうかがう。帽子の影で目が見えないが、口元は一文字だ。
「無い、ような、気がする、ような」
ほぼ風に流される声音で愛想笑いを浮かべてみる、駅員は手元の書類をパラパラとめくり、一文字の口を開く。
「お客さん、名前は?」
「へ? 名前?」
名乗りかけて、止まる。思い出せない。先ほどと同じように自分の体中を叩きポケットへ手を突っ込むが、切符も名前も出てこない。
「いやいや。個人情報なんで」
思わず適当なことを口走る。駅員は書類から目を話さない。
「御乗車の予定の方ですか?」
「え、それはもちろん……」
そうだ、とは続けられなかった。俺はどこに行こうとしているんだろう。というか、ここはどこだ? どうしてここに来た?
「えっと、ここってどこですかね?」
駅員は無言で上を指さした。見あげると「大境」と駅名が書かれていた。ますますどこだ? ここ。
「先に、よろしいですか」
後ろから遠慮がちな声がする。シルクハットを被った小柄な老人だった。俺は慌てて改札から離れる。
老人は俺に目礼をすると、駅員に切符を差し出す。改札を抜けるピンと伸びた背筋は、実際よりも背が高く若々しく見える。すると、ホームの奥から女性が駆け寄る。キュッと締まったウエストにボリュームのあるスカート。羽の付いた帽子はリボンをあご下で結んでいる。昔の貴族のような二人だ。
「お前、待っていてくれたのか」
「勿論よ。でも待ちくたびれたわ」
抱きとめた老人はさらに背が伸びていた。髪も黒々として、後ろ姿しか見えないが女性と同じくらいの年齢に若返っている気がする。
二人がホームに立つと、右手から一両の電車が入ってきた。オレンジと白のツートンの、どこかレトロな電車だった。二人を乗せた電車はゆっくりと旋回し、水平線に向かって真っすぐに進み、やがて青と青の狭間に消える。
低い咳払い。
「あ」
駅員が俺を見つめていた。
「そうだ、切符。発券機ってどこですかね?」
キョロキョロと周囲を見回すが、木造の改札以外に機械らしいものは見当たらない。
「御乗車の予定の方なら、すでに切符をお持ちのはずです。どこかにお忘れになっているのでは?」
「そういうもんなんですか?」
……無言だ。微動だにしない。
改札を通れないなら駅にいる意味もない。俺は諦めて回れ右をする。
木製の駅舎の外はのどかな田舎道だった。ピョコピョコと植えられたばかりの稲田が広がり、車一台が通れる程度の舗装された道路がまっすぐに続いていた。
結局「大境」ってどこなんだろう。調べたくてもスマホも財布もない。この道を歩いた記憶もないから電車でここまで来たということだろうか。どこをどう乗り継いだらここにたどり着くんだろう。そういえば名前も思い出せていない。財布の中に免許証が入っているはずだ。スピード違反でまたもブルーになった免許証。ねずみ捕りをしていたあの憎々しい警察の顔は思い出せるのに、自分の名前が思い出せない。もういいや。思い出せなくてもいい。とりあえず家に帰って寝たい。
気づくと一軒の平屋の前にいた。近くを流れる細い川に水車がカラカラと音を立てて回っている。その水車のそばにいた女性が立ち上がり、笑顔で俺に手を振る。
「おかえり。早かったわね」
「ただいま」
自然と返事をしていた。馴染みのある人物だと、脳が勝手に受け入れていた。彼女の顔をマジマジと見つめる。親とか兄弟とか親戚じゃない。恋人でも多分ない。友人、だろうか。
名前を知っているはずなのに、頭の中で言葉を組み立てようとすると空気のようにふわりと散っていく。
「なかったんだ、切符」
名前を思い出せないまま、近づいてきた彼女に話しかける。
「そっか」
彼女は心から安堵したように、ふぅと息を吐く。
「よかったわね」
「なんでよかったなの?」
彼女は悪だくみをするように、にやりと鋭く口角を上げ、
「地獄への片道切符だから……なんてね」とぷっ、と吹き出す。
その笑い方に懐かしさを感じていた。思わずつられて笑った俺を見て、彼女は両手で自分の頬を軽く叩く。真剣な表情に戻すと、言葉を続けた。
「どこへ行くのか知らずに列車に乗るのはよくないから。知らないんでしょ?」
たしかに、自分がどこへ向かおうとしていたのか、なんならどこから来たのかも今のところ思い出せない。
「死ぬ権利なのよ、それは」
彼女の声には温かみがあった。だが鋭利な言葉は俺の血の気を奪う。
「死ぬ権利……」
「君が持っているはずの切符を使えば、列車は君を死へと運んでくれる。多分生きるか死ぬか、どっちつかずだからどこにしまったかわからなくなったのよ」
彼女は細く白い人差し指を俺にすっと向けた。
「君、生きたいの? 死にたいの?」
向けられた指先から逃げるように、思わず身じろぎする。
「死にたくなんてないよ」
「じゃあ、生きたいのね」
「そりゃ、まあ」
「でも、生きることに迷いのない人は、こんなところに来ないのよ」
彼女の心の中までのぞき込むような瞳が俺を射抜く。その視線から逃げるように顔を背けた。家の玄関へ向かいながら、言い捨てるように吐き出した。
「もういいだろ。疲れてるんだ」
玄関から長い廊下を進み、迷わず右手の部屋へ入る。六帖一間の俺の部屋だ。体重で中央が凹んだ万年床に倒れ込む。体が重くてもう寝がえりも打てない。視界の端に、脱ぎ捨てたスーツが映る。せめてハンガーにかけないとシワになるな、と思ったが動きたくない。どうせもう着ることは無いんだ。
< 続く >