この本に書かれているのは「手洗い」つまり手を洗う行為についての叙事詩です。……この本には、詩の言葉で、手洗いについてのさまざまな事象や、手の洗い方、歴史、物語が書かれています。(「はじめに」より)
新型コロナウイルスによるパンデミック以来、さまざまな変化を強いられてきた私たちの社会や生活――政治や科学のことばがあつかう“大きな変化”に対して、日常における微細な変化、ささやかだけれどきわめて切実な変化をすくいとるのには、詩のことばこそ、うってつけです。
「テノウオ」なる全自動手洗いマシンが出現した今よりちょっと先の未来を舞台に、「手を洗うこと」についての統計、歴史、省察、記憶や物語が、共同制作という方法によってアクロバティックに織りなされる、ヴァーバル・アート・ユニットTOLTA(トルタ)による、ポップでシリアスな“現代の叙事詩”。
これからの「手洗い」の話をしよう――
本書は、2020年11月にTOLTAにより刊行された冊子『新しい手洗いのために』を加筆修正し、「はじめに」、書き下ろし詩篇「さらに新しい手洗いのために」「付記」を加えたものです。
この本に書かれているのは「手洗い」つまり手を洗う行為についての叙事詩です。
叙事詩とは一般的に出来事について語る詩とされていますが、実際にはたとえばインドの偉大な叙事詩「マハーバーラタ」にみられるように、物語や歴史や思想のような人間が考えたさまざまな事柄を詩の言葉で表したものをいいます。つまりこの本には、詩の言葉で、手洗いについての様々な事象や、手の洗い方、歴史、物語が書かれています。
もっとも「手を洗う」とは歴史的な出来事ではありません。多くの人にとっては、これまで特に注意をひくこともない、ありふれた日常の行為にすぎなかったでしょう。しかし2020年から現在も続いているパンデミックは多くのことを変えました。
2020年1月以来、世界史に残る全人類的出来事となった新型コロナウイルス感染症は私たちの生活を大きく変えました。2020年4月から5月にかけて発令された緊急事態宣言の頃から、たくさんの人が仕事や生活のありかたを変えざるをえなくなりましたが、その後、この感染症に適応した「新しい生活」を呼びかける言葉をそこかしこで見かけるようになりました。
移動の自粛、在宅ワークの推進、三密(密集、密接、密閉)を避ける環境をつくる、大勢が密集する場所ではできるだけ話をしない、大声を出さない。会食は少人数で、話をするときはマスクをつける。不特定多数の人に会う場所でもマスクをつけ、触ったものは消毒をする。
感染症に対応するためにさまざまな方策がとられましたが、同時に積み重なるのは経済や文化への負の影響です。音楽フェスティバルや演劇、芸術祭、スポーツイベントなど、人と人が直接顔をあわせ、空間を共有することが前提となる祝祭が、長期にわたり中止や延期となりました。再開されても、いまだに感染症の影響下にある現在は、それ以前と同じように実施することはできません。
家の中から、パソコンやスマートフォンの画面を通じて外の世界と向きあう時間が否応なく増えました。外出の際にマスクを装着するといったすぐ目に見える変化と、個人の内心にも関係する変化――手指の消毒液を生活必需品に加えるといった些細なことから、失業などで収入や身分を失うといった一大事まで――が並行して起きました。
これらの変化は新型コロナウイルスによって起きたものです。とはいえこれらの変化は同時に、2020年の日本にすでにあった仕組みをあらわにするものでもありました。私たちの暮らし――会社や学校や家庭や趣味の暮らし、そこには元々、うまく機能していなかった事柄があります。逆にとてもうまく働いて、私たちを豊かに、幸福にしていた事柄もあります。普通の状況では、人はなかなか自分の生活をとりまく仕組みに気づきません。生きるとは多かれ少なかれ、おかれた環境に適応し慣れてしまうことだからです。豊かさにも貧しさにも便利さにも不便さにも私たちはすぐに適応し、自分がどんな仕組みによって生きているのか、生かされているのかに鈍感になります。
しかし「新しい感染症」によって、私たちは暮らしを支える見えないもの、医療システムや健康保険制度、通信インフラの現状、産業構造、雇用形態、教育システム、娯楽や芸術活動のありように気づかされることになりました。新しい感染症によって、インターネットを通じたコミュニケーションや情報共有はさらに広がりましたが、余裕のない状態でなんとか存続していた従来のシステムのいくつかには、多くの困難が生じています。
あきらかなのは、感染症によって私たちの社会は否応なく、これまでとは違う状況、違う段階へ進んでいるということです。それにもかかわらず、今の私たちはまだ、生まれつつある「新しい社会」に適応できていません。感染症を防ぐための行動の制限は他者を否定し、非難することにつながりがちです。日常生活にはこれまでなかった軋みが生じています。私たちTOLTAはこの状況の中で、誰も否定しない本をつくりたいと思いました。
感染症および公衆衛生対策の基本は「接触の管理」にあります。そのための基本的な方法は手を洗うことです。新型コロナウイルスCovid‐19においては飛沫感染を防ぐためのマスクが重要とされていますが、はっきり目にみえる一方で顔の大部分を隠してしまうマスクの装着は、文化や体質によってなかなか受け入れられないこともあります。その一方で「手洗い」はたいていの場合、他人の目に触れない行為です。
視覚優位な生き物である人間はとかく、目に見えるものから問題にしがちですが、私たちの目は顕微鏡でありません。ほとんどの場合、洗った手も洗っていない手も私たちには区別がつかない。つまり「手洗い」はマスクとちがい、他人の目を気にする必要のない、自分ひとりで完結できる行動です。
手を洗うことは他者を否定しない。だとすれば、Covid‐19によって現れた新しい世界に右往左往している私たちは、このことについてもっと考えた方がいいのではないか。言葉を費やしてもいいのではないか。
というわけで、私たちはこの本をつくりました。このあと、手洗いについての叙事詩がはじまります。
2021年1月
TOLTA代表 河野聡子
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