春は出会いと別れの季節とはよく言ったもので――例外に漏れず、新しい環境へと移り住む準備に明け暮れる羽目となった最後の『春休み』は例年よりも慌ただしさを増したまま日々過ぎていくばかりだ。
それは、いつしかこの部屋へと『帰る』ことがあたりまえになっている男の中でも変わらないらしい。
「ただーいまー」
ガチャリ、と合い鍵を回すいつもの音と共に、少し間延びした様子の聞き慣れた声が届く。
「おう、お帰り」
「あーまねー」
珍しく微かに顔を赤らめるようにして、よろり、と少しばかりおぼつかない足取りのままぎゅっと身を寄せられる。
「きょうさー、ゼミの先輩とか企業の人とかなんかいっぱいきててさー。べつにみんないい人なんだけど、なんかちょっと疲れたー」
ぐり、といつもそうするように肩口に押しつけられた顔は微かにのぼせたように赤く染まって、いつもの整髪料に混じって、アルコールと煙草、それに、誰かの香水らしきものの匂いがふわりと立ち上るように香る。
「周のにおい、おちつく」
すんすんと鼻を鳴らして犬みたいに懐かれるその仕草を、あながち悪い気分ではなく受け止めてしまえるのが我ながらなんだかおかしい。とんとん、と子どもをなだめるように数度背中をなぞってやれば、わずかに潤んだかのように見えるまなざしがじいっとこちらを捕らえながら、くすぶった吐息まじりの言葉を紡ぐ。
「きょうさぁ、すっごい眠いから寝落ちしちゃうと思うんだけどいっしょ寝てもいい? えっちしたかったらごめんね」
無邪気な言葉とは裏腹に、髪をさらりとなぞりあげる指先にはひりひりとめまいを呼び起こすかのようなあまい痺れがスパイスのように潜められて、自在にこちらを翻弄するのだ。
そこまでがっついてねえよ。喉の奥でつかえた言葉をぐっと飲み込むようにして、少しひきつれた指先の上に自らのそれを重ね合わせながら投げかけてやる言葉はこうだ。
「……いいから、そんなの」
「そっかぁー」
うれしそうに瞳を細めてつむがれる言葉を前に、答える代わりのように、さわさわと後ろ頭を撫でてやれば、安心したかのように、抱き留めた身体がゆらりとこちらへとゆだねられる。
いつのまにか、こんなにもあたりまえになっていた。引き返すようにこの部屋を後にする背中を引き留める言葉のひとつすらかけられなかったあんな日々が、まるで嘘みたいに。
いつものように狭苦しい寝床で目を覚ませば、傍らにはあたりまえみたいに、見慣れたあの顔がいる。
「……忍」
寝起きのざらついた声に苦笑いでも漏らしたくなっていれば、同じくらいの、やすりをかけわすれた木肌みたいな少し焼け付いた声で、「おはよう」とそう声をかけられる。
「――あまね」
いつになく頼りない響きでつぶやきながら、すり、と寝起きの少し体温の高い身体をすり寄せられる。
「さっきねえ、夢見てたの。周の夢。夢ん中でもいっしょで、起きても周いるじゃん。なんかさぁ、おかしいなって思って」
少しだけ寝ぼけたような様子のまま、熱を帯びた指先はまるで暗がりの中でこちらの輪郭をたどるかのようなおぼつかない手つきで、さわさわと頬や耳のあたりをなぞる。
「周がさ、初めて泊まっていいって言ってくれた日があったじゃん? そん時の夢でさぁ」
なにかを探し求めるように、しなやかな指先でするりと髪をかきあげる仕草とともに、続けざまに言葉が紡がれる。
「周、すごい緊張してて。かわいいなーって思ってたけど、ほんとはちょっとだけ心配だったんだよね。朝起きて、周いなかったらどうしよって。でも周、ちゃんといてくれたじゃん。ぱちって目があいて、したら、なんかちょっと不機嫌そうにして、でもちゃんと俺のこと見てくれてる周がいて。夢かな? どうしよって思いながら『おはよ』って言ったらちゃんと、おはようって返してくれた」
笑いかけながら答えてくれるその瞳の奥で、揺らぐ光が、僅かににじむ。
「なんかね、いま起きて。あれってなったんだよね。どっちなのかわかんなくて、あれって。でも、ちゃんと周だった。きのうちゃんと『おかえり』って言ってくれて、一緒にいていいって言ってくれた周だって、ちゃんとすぐわかった。だからだいじょぶなんだって思ったら、なんかすごい安心して」
笑いながら髪を梳く指先がほんの僅かに震わされていることに、いまさらのように気づかされる。
「……ごめん」
振り絞るように、そう答える。吐き出した吐息はたちまちに胸の奥で滲んで、ぎゅうぎゅうと心ごと締め付ける。
「……なんで謝んの?」
僅かに輪郭のふちを歪ませた言葉をまえに、答える代わりのようにそっと髪をなぞりあげ、少しだけ汗ばんだ額にそっと口づける。
後戻りなんて出来ないことを知っている。いまここにいてくれる、それが答えで、すべてだなんてことだって。だからこそこんなにも苦しい。こんなにもあたたかい。
「忍、」
ぎゅうっと両掌で耳をふさぐようにしたまま、やわらかに吐息をふきかける。
好きだ、とうんと力なくそう囁けば、微かに潤んだかのように見えるまなざしは少しだけ驚いたようなそぶりを隠せない様子で、じいっとこちらを見つめ返してくれる。