安藤は銀行頭取と面会中に思わず札束をズボンのかくしに入れて
しまった。返しに行くという親友路井はそのまま行方不明になる。
会計士鳥田部は自殺しようとした安藤に金を貸し、安藤が助けた
春子は鳥田部が悪人だと警告する。
「巌窟王」「幽霊塔」を著し、江戸川乱歩から宮崎駿まで
後世に多大な影響を与えた明治のベストセラー作家黒岩涙香。
初単行本化された未完長編のその後を原作の英語版をもとに
新たに訳出。
第三回(下)
安藤[あんどう]が頭取の問いに顔色を青くして返事に窮したそのとき、食堂の時計が一時の鐘を打った。頭取は今夜劇場で会うことを念押しして、また忙しげに馬車で出かけ、安藤も急ぎの仕事があると言いまぎらせ、心配する雪子をおいて、そうそうに事務所に戻った。安藤は今見聞きしたことで頭をいっぱいにしていた。わずか一時間の間に、羽田[はねだ]家について、この一か月に知ったことよりも多くのことを知った。父娘は秘密を抱えていた。安藤が雪子の母のことを話したとき、二人が隠し切れなかった感情が、それを証明していた。ドクトル丸橋[まるはし]の言葉にも驚かされた。ドクトルは、薬舗の調合の間違いなどと言いまぎらせていたが、確かに「毒薬」と言いかけていた。分析のために臭素化物を持ち帰る際の用心深さは、ドクトルの疑念を示していた。それにドクトルの病院の十九号なる患者が路井ではないかとも怪しんでいた。
安藤は、考えごとをしながら机に着いたが、仕事を始めると、昼食での出来事を次第に忘れていった。覚えているのは劇場への招待と雪子[ゆきこ]の視線だけだった。雪子は安藤に想いを寄せていたが、頭取はそれを確かに見てとっていたし、それに反対もせずに安藤を劇場に呼んだ。しかし、話が急すぎると感じていた安藤は素直に喜べなかった。安藤のことをよく知らないはずの羽田父娘が安藤にこれほど優しいのは、何か理由があるに違いないと感じていた。安藤の容姿や教養だけが理由ではなく、一家の名誉に何か汚点があるに違いない。安藤が貧しく名誉、不名誉に厳しくないと思われたために選ばれたのだと考えた。安藤にとって納得のいくものではなかったが、その心は雪子にすっかり奪われていた。
安藤は雪子と会うことに気をとられ、書類を何度も書き間違えた。頭取は出かけていたので、そのとき頭取の部屋には安藤以外誰もいなかった。よほど大事な用件でもない限り、頭取が銀行を離れることはなかった。頭取は破産を免れるために必死の努力をしているのだろう。
安藤には何もできなかった。安藤が来た途端に繁昌していたこの家が不幸になったのは、自分が誰かに呪われているのかもしれない。こうしたことを考えていると、雪子と楽しい夜を過ごすという喜びが少し薄れてきた。食事の後すぐに、雪子が安藤に枡の番号と安藤と芝居を観ることを楽しみにしているという伝言を送ってきた。雪子は、父親の財政難を少しも知らないようだった。安藤は不安に思いながらも、雪子を待たせないように急いで手紙を書き上げた。
彼は最後の手紙を書き上げ、頭取が劇場へ出かける前に署名してもらおうと、頭取の机に手紙を置こうとしたとき、電話が鳴った。