完結編については、解説でも書いたように『露人の娘』は大筋では原作に忠実な物語となっていますので、原作の続きの部分をほぼそのまま訳すことができました。筆者の訳文のつたなさは、本編の判読の努力に免じて許していただくとして、本書は涙香小説の完結編という位置づけで作りましたのでその趣旨に沿うよう変更した部分があります。筆者の作業を「翻訳」ではなく「翻案」としたゆえんです。主な変更部分は本書で確かめられるようにしてあります。関心のある方は少し手間はかかりますが、ご自分で比べてみるのも一興かと思います。
本書は、未完に終わった黒岩涙香『露人の娘』(黒岩涙香単行本未収録作品集第一巻・第二巻)の完結編としてフランク・バレットの原作小説のうち『露人の娘』に続く部分(第三十七章以降)のみを新たに翻案したものです。登場人物の名前は『露人の娘』にあわせました。
第三十七章 離婚
橋川良政が食事を終えたとき、給仕が食後の茶菓を運んで言った。
「渡様が書斎でお待ちです」
良政はいつも慎重である。グラスに静かに水を注ぎながらよく考え答えた。
「渡にここへ来るように伝えなさい」
良政は皿から目を離さずにゆっくりと食べ続けた。橋川渡が部屋に入って戸を閉めると、良政は顔を上げ、渡に射ぬくような視線を向けた。
渡は一日中何も食べていなかった。空腹と心の動揺でふらふらであった。額には汗がにじみ、やつれた顔でうつろな目をしている。
良政「戸棚からグラスを出して、シェリー酒を飲みなさい」
渡はそんなことにはお構いなく
「大事なお話があります」
良政「そうだろうな。まず一杯飲みなさい。すぐに食事を済ますから、話はその後だ」
渡はシェリー酒を飲み、パンを食べたが、咽喉に詰めてしまった。良政がさじを置くと、渡は慌てて自分も置いた。
良政「昨晩の万国館はどうなった」
手で顔を覆いテーブルに肘をついていた渡は、そのまま黙ってうなずいた。
良政「あの覆面の貴婦人が誰だかわかったんだな」
渡は指を震わせながらつぶやいた。
「織娥でした」
良政「あのような恥知らずの振る舞いに、織娥はどのような言い訳をした」
渡「金のためでした」
良政「織娥は近頃、作文の原稿料で十分稼いでいたはずだ」
渡「春川夫婦に恐喝されていたのです」
良政「織娥がそう認めたのか」
渡「それだけではありません」
渡はテーブルに静かに手を下ろし、良政の目を見た。
渡「春川夫婦と一味になり、祖父の盗みを手伝ってしまったと織娥は言っています」
良政はうなずき、自分の疑いが当たっていたことに驚きも喜びもしなかった。
良政「他にもあるはずだ。偽りによってなんじの妻になったことを織娥は白状したのか」
渡「はい、そうです」
良政「自分の正体もか」
渡「織娥は、あなたの疑いをすべて認めました」
良政「織娥が嘘をついているということはないのか」
渡「今朝までは嘘かもしれないと思っていましたが、祖父の笹里愛雲――いや相澤巧翁――も認めました。もう疑う余地はありません」
良政「横着な奴だ。巧翁がロンドンに戻って来たのか」
と眉をひそめて尋ねた。
渡は巧翁との面会の委細を手短かに話し、最後に言った。
「わたくしは一週間以内にダイヤモンドを金林少佐に返せば、一万五千ポンドを支払うという約束書を巧翁に渡しました。巧翁は今ダイヤモンドを取り戻しにハンボルグに向かっています」
良政は憂鬱そうに言った。
「一万五千ポンドは大金だな」
渡「巧翁がその三倍の金額を要求してきたとしても、わたくしは払います。ダイヤモンドを金林少佐の手に返すのは、わたくしの責任でもあります。そこで父上に約束書の支払いを手伝っていただきたいのです」
良政「状況次第だ。泥棒に加担するのは非常に危険だし、このほう個人には何の関係もないことだ。このほうが、その大金をなんじに与えるには厳しい条件がつく」
渡「この重荷から解放されるのであれば、どんな条件でもかまいません」
良政は重くうなずいた。彼はどんなときも慎重である。良政は尋ねた。
「なんじの妻もハンボルグに行ったのか」
渡「いいえ」
良政「どこにいる」
渡「家です」
良政は眉をひそめて尋ねた。
「あの恥知らずをどうするつもりだ」
渡「まだ考えていません」
良政「今が考え時だ。泥棒に与えた約束書よりも、そのほうがはるかに重大な問題だ」
良政は渡に考える時間を与えるために間を置いた。渡は自問した。
「これからどうやって生きていけばいいのだろう」
最後の瞬間まで、渡は織娥を信じていた。織娥の告白以来、渡の頭の中は織娥の罪を償う手段で一杯だった。この後どうなるのか、渡の頭は考えることができなかった。
しばらく待ってから、良政は沈黙を破り
「離婚せよ」
良政はきっぱりと言った。渡は、殴られたように驚いた。この衝撃で麻痺した心がよみがえった。
渡「離婚!」
信じられないという調子で繰り返した。
良政「織娥をまだ愛しているのか」
渡は首を横に振った。織娥の白状を巧翁が認めた時に、織娥に対する愛情は消えたと思った。この考えは変わらないと信じていた。
良政「そうであれば、このほうが言わずとも離婚するのが当然であろう」
渡「どんな理由で離婚するというのです」
渡に対する織娥の愛情が心によみがえり胸が痛んだ。織娥は恐喝されていた間もずっと情熱的な深い愛情を渡に示してくれていたのだ。
良政「そんなことは弁護士に任せておけばよい。詐欺による結婚は無効であると自分で納得すればよいのだ」