安藤は銀行頭取と面会中に思わず札束をズボンのかくしに入れて
しまった。返しに行くという親友路井はそのまま行方不明になる。
会計士鳥田部は自殺しようとした安藤に金を貸し、安藤が助けた
春子は鳥田部が悪人だと警告する。
「巌窟王」「幽霊塔」を著し、江戸川乱歩から宮崎駿まで
後世に多大な影響を与えた明治のベストセラー作家黒岩涙香。
涙香にはこれまで書籍化されていない作品があった。
未完のため埋もれていた長編を初単行本化。
「仇うち」他3編(縁、短編小説、西洋短話)収録。
編集 真壁雅彪 口絵 いずみチエ
悪因縁 第一回(上)
二月の日暮れやすく午後もなお五時を過ぎねど、行き来の人はいずれもおのが家路に急ぐごとく足の運びせわしげなり。ここはフランスの都パリ府のうちにも、いとも商売の繁昌すると聞こえたるフォブグ、モントマトル街なるが、群衆を押し分けベルゼール街の方を指して行く二人の少年あり。二人の背丈及び年頃こそ似寄たれその他はほとんど雪と炭にて、一は貴公子のごとく、他は書記のごとし。一は色白くして眉目清らに、姿もやっさりと細くして世にいう女にもして見まほしきたちなれど、他は世間に類多き有り触れの雛形なり。振り返りて見直すほどの値打ちもなし。この二人主従かと見れども主従ならず。「君が」「僕が」の話しぶりは身分に何の違いもなきごく打ち解けたる友達なるべし。ことにその身なりより察するも貴公子に似たるもの必ずしも貴公子ならず。どこやら見すぼらしきところの見ゆるは世に捨てられし零落の人なるにや。二人はやや人通りのまばらなる所まで漕ぎ行きて言い合わせしごとく歩みをにぶくし、美しき一人、有り触れし一人に向かい
「ねえ、路井[みちい]君、少し時が遅れはしまいか。今から行っても、もう銀行がひけていて、頭取羽田[はねだ]氏に会うことができぬかもしれぬ。いっそ僕は引っ返して明日また出直すがよかろうかとも思うが」
路井と呼ばれたる有り触れは
「なあに安藤[あんどう]君、君は田舎から来てまだパリの風俗を知らぬのだ。銀行頭取などに面会を求むるには今がちょうどよい時だよ。それにまた今日は株式がずっと気を構いて止めたから羽田頭取はニコニコしている。なんでも紹介状を持って会いに行くのは、かような機嫌のよいときに限る」
美男安藤は少し力を得て
「どうかそのとおりであってくれればよいが。もしも会うたところで別に雇い入れる必要もないからと断られてまたすごすご田舎へ帰るようでは母がどれほど心配するかもしれぬ。心配は我慢するとしても、ここでいくらか給金の口にありつかねば母と二人で暮らしにも差し支えるという場合だからさ。君も知ってのとおり僕の父は土地で名のある財産家であったのが汽船会社のつぶれたため一文無しに零落して死んだのだから」
路「そう思うと実に気の毒だよ。君などは親が死ぬれば幾百万という立派な身代を受け継いで貴族も及ばぬ暮らしのできる身分であったのに。僕などは親代々一文なしだから貧乏を貧乏とも思わぬけれど」
安「なに君、君はもうセンチール街の立派な商館の書記だから月給は低くても、なかなか貧乏というではないのさ。後々は商館の組合人にも出世する見込みがあるじゃないか。僕を見たまえ。これからすぐに銀行なり商館なりへ入られるとしても何一つこれができるという芸はなし。その稽古からしてかからねばならぬ始末で」
路「なに君、商売のことというものは、ばかでさえなければ辛抱一つでできるものだ。そう心配をしたまうな。それに男でも君のような美男子ならば雇い主の娘に見そめられ婿になるということもできる。なに、今からそう赤面することはない。本当だよ、雇い主にもし年頃の女でもあって見たまえ。君などを見そめぬというは真に盲目だ。僕などはこのとおりのつぶしだけれど決して自分から失望するということはない。聞けば頭取羽田氏はなかなか親切な人だというから、必ず君を取り立ててくれるだろう。その上にまた年頃の令嬢があり綺倆のよいのでは有名だぜ」
安「そのようなことはどうでもよい。ただ取り立ててくれさえすれば僕は何よりありがたい。どうかまあ、先が取り立ててくれたうえで任されただけの事務がうまく勤まればよいものだがと、ただそればかりが心配だ」
路「なあに、そのようなことを心配する奴があるものか。何でも人のすることなら必ずおれにできるものと、こう自分から確信してかからねばいけぬ。万事充分に確信して、言うことは大胆に言いたまえ。わたくしにはできるかできぬか分かりませんがとか、わたくしは貧乏ですがとかいう具合に自分から弱みを見せては頼みごとが決して通るものでない。早い例えが金を借りるにも貧乏と分かれば容易に貸してくれぬようなものさ」
と言いかけて「つぶし」路井は行く手の方を打ち眺め
「おやおや、君に説法しているうちに、それ約束のベルゼール街に着いた。あすこに見ゆる鉄の門が羽田銀行で、頭取の住まいはあの後ろに続いている。僕は門のとこまで君と一緒に行き、それからドロート街とラフェット街の角にある珈琲館に入って君の吉左右[きっそう 編注 よい知らせ]を待っている。もし頭取が雇うてやるとか何とか言えば君すぐに飛んできたまえ。一緒に祝杯を挙げるというも大仰だが、とにかく心祝いの晩餐でも食べるから」
安「よしよし、まあ、そう君が励ましてくれるはありがたいが、何だか頭取に会ったところで良い返事はあるまいと思われる。僕はもうそれが心配で」
と言いさして力なくこうべを垂るるは、母と我が身の運命を定むべきこの面会の案じらるるためなるべし。路井もその思案を妨げじと思うごとく鉄門に至るまでまたその口を開かず。