「おお、本当に鹿が歩いてる」
宮島口から連絡船に乗り、桟橋のターミナルを出るとすぐに野生の鹿に出くわした。
すこし大きな角を携えた大人の鹿はやる気のなさそうな瞳で涼介を一瞥すると、すぐにまたやる気のなさそうな足取りで目の前を通り過ぎていった。
ようこそ宮島へ。涼介には鹿がそう言っているようにも見えた。見知らぬ土地で浮かれているのが、自分でもよくわかった。鹿に小さく手を振ると、歩みを進める。
ひゅうと肌を撫でる風は冷たい。冬の真っ只中だった。春は桜、夏は青い空と海、秋は紅葉で美しく彩られるというこの島に、こんな季節に来てしまったのには理由があった。
涼介は目的地へ向かって一直線に歩く。導かれるように、なんて言えば大袈裟かもしれない。だが、海沿いの道を迷うことなく歩けば、まるで以前からここを知っているかのような感覚にもおそわれる。
宮島のシンボルである、あざやかな大鳥居がどんどん大きくなってくる。いつかポストカードで見たことのある景色だった。海は満潮で、すこしくすんだ青の色に朱の色が佇む姿は、たしかに美しかった。
「なんか、『宮島』来たって感じだなあ」
涼介はスマートフォンのカメラで、その光景を四角に切り取った。晴れてよかった、と思った。
試験の日も、今日みたいに晴れますように。
「…なんて、神頼みするのはあとあと」
そう、この道の先には、嚴島神社の社殿がある。
拝観料を高校生料金で払えるのは去年までだ。窓口で「浪人生ひとり」と余計なことを口走りそうになるのを抑えて、運良く財布にあった小銭を支払う。
すると、目の前に続くのは、朱の柱の並ぶ廊下。
涼介は今日まで神頼みなんて馬鹿馬鹿しいと思っていたが、一歩足を踏み入れた途端、厳かな気持ちになった。念のために手水の作法を勉強しておいてよかった、と思った。手指の先まで凍るような冷たい水が、逸る気持ちをより落ち着かせた。
ここなら本当に、なんとかなりそうだ。
まずはこれも予習通り、祓い所と呼ばれる前で自身の身を清める。ここならではの作法にすこし緊張もした。
社のすぐ下まで海水がせり上がっている中を歩くのは、まるで海の上を歩いているようだった。写真を撮ることも忘れて、ゆっくりと一方通行の境内を歩いていく。
回廊の角を曲がれば、ここにもポストカードや観光ガイドでよく見る光景。いつか写真で見た景色とおなじ場所に立つと、いつも不思議な感覚に陥る。平舞台からさきほどの大鳥居を望めば、なんだか今自分が異世界にいるような気さえした。
しばらくここから鳥居を眺めていたかったが、いかんせん寒い。そそくさと奥へ引っ込むと、小銭が投げ込まれる音のするほうへ、自分も分け入っていった。
財布を開くと、さきほど拝観料を支払ったせいか、中に残っている小銭は五円玉だけであった。
まあまあ、こういうのは額じゃなし。涼介はその五円玉を賽銭箱へ投げ入れると、二礼二拍手一礼でもって、嚴島の神様にお参りした。
強く合わせた両手のひらからは、こんな時期だというのにうっすらと汗が滲んでいた。神様に聞き届けてもらいたい願いはこうだ。
『どうか、今年こそは無事にセンター試験会場にたどり着けますように』
心の中で、何度も何度もくりかえす。
その姿のままあまりに長く動かないせいで、外国人観光客にくすくす笑われたが、涼介は気にしない。やがて、それまで息でもとめていたかのように「ぷはっ」と小さく呼吸を貪ると、そこをあとにした。
せっかくここまで来たのだからとお守りをいただく。お土産にといくつか購入していたら、百円玉が何枚か戻ってきた。
その百円玉で、せっかくだからとさらにおみくじを引く。
ざらざらと六角形の木の箱を振り、出てきた棒に書かれている番号とおなじ番号の札を、自分で箱から取り出すシステムだ。
涼介の番号は九。箱を開けてびっくり。
「…凶かよ」
とはいえ、それほど悪いことばかり書いているわけではあるまいと読み進めたが。
「勝負事、まけ。縁談、わるし。ってのがどうにもこうにもな…。なんか心が痛い」
昔から、はっきりとものを言われるのが苦手であった。京都あたりにでも生まれればよかったのかもしれないな、なんてどうでもいいことを考えながら、境内の柱のそばでおみくじが結びつけられすぎて真っ白になっているそこへ、自分もその茂みをかき分け『凶』を置き去りにした。
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