「手紙を出してきてほしいんだ、出来るだけ遠い街から」
老紳士はそう言って、すこしだけ端のよれた絵葉書を飴色のカウンターの上へとそうっと差し出して見せるのだった。
濃紺のインクで走り書きのように記されたいやに筆圧の強い独特の筆跡は、彼を知るものならきっと宛名を見ずともすぐに分かるものなのだろう。
宛先の横には、ひとことふたことの短いメッセージとともに彼の名前らしきサイン。返事を送るための返送先は空白のままだ。
「出来ればその土地の切手を貼って投函してほしいんだ。記念切手なんて珍しいものじゃなくって構わない。手間賃ならいくらだって出してやっていい。このとおりのおいぼれにそれほどの資産があるとはかいかぶらないでほしいけれどね」
茶目っ気をまじえて答えて見せる姿を前に、すっかり氷の溶けきったグラスをそうっと傾けながら僕は尋ねる。
「そのくらいおやすいご用だけれど、なぜ僕に?」
すん、と鼻を鳴らすようにして、老紳士は答える。
「マスターに聞いたんだ、誰も聞いたことのないような辺鄙な田舎町にふらりと訪れる気まぐれな旅を続けている物好きな若者がいるってね。いつも同じ席にいるはずだから、わかるだろうって」
「……それはまた、光栄な」
思わず肩をすくめるようにしながらカウンターの片隅で置物のように佇むマスターへと視線を落とせば、口元にだけうっすらとした得意げな笑みを浮かべながら、ちらりと目配せを落とされる。
「悪いことじゃないだろう、別に」
苦笑いを浮かべるこちらを前に、やわらかに瞼を細めるようにしながら老紳士は答える。
「そっくりだなと思ったんだ。ずっと昔の、いつかのおれと。いまでもそんな風な生き方に身を委ねてるやつがいるだなんて、誇らしく思ったくらいだ」
「へえ、」
こちらのまなざしの奥に点った好奇の色に気づいたのか、途端に誇らしげな口ぶりが浮かぶ。
「このもうろくじじいにもあんたと同じくらいの若者だった頃があってね、ずうっとあちらこちらへ旅を続けてたんだ、宛もないままね。特別な理由だなんてものは何ひとつありはしなかった。あんただってきっとそうだろう?」
「ええ、」
ちいさく首を縦に振るようにして答えれば、気の置けないやわらかな笑みが返される。
「いまでも旅は続けてるんだ、それも随分とゆっくりなペースになってしまったけれどね。それもいつまで続けられるのかはわからない。だったら誰かに代わりを頼めばいいんじゃないかと思ったんだ。そうすればこちらが元気だってことがちゃんと伝えられる。案外いるもんなんだよ、若い頃のおれみたいな無鉄砲な輩っていうのはね」
「数十年かそこらじゃあ、人の価値観なんてそう代わりはしない」
「……まったく、あんたの言う通りだ」
答えながら、少しささくれだった指の先をそうっとさするようになぞって見せる姿をぼうっと眺める。
「ねえ、つかぬことを聞いても?」
「内容にもよるな」
顎をしゃくるようにして答える老紳士を前に、僕は尋ねる。
「その手紙を送る相手のことなんだけれど。それは、あなたの恋人?」
「……だろうと思った」
おおかた予想通り、と言わんばかりのうっすらとした苦笑いを浮かべたまま、すっかり白いものが混じったあごひげをなぞりながら男は答える。
「そんな間柄なんかじゃない。そもそも、そう望んだことだってない。強いて言うならそう――友人だな。向こうがそう思ってるかはわからないけれど」
「古い友だち?」
「さっきも言ったろう、おれがあんたと同じくらいの年の頃に知り合って――それっきりだ。あれっきり、どんな風に過ごしてるのかも知らない」
「それなのに、手紙を?」
「約束したからな」
「ねえ、」
次の旅人を待つその間、それなりの時間を彼と過ごしてきたのだろう――少し端のよれてやや草臥れた様子の絵葉書を指先でそうっとなぞりながら、僕は尋ねる。
「もう少しだけ詳しく聞いても構わない? あなたとそのご友人のことを」
「……随分な詮索好きに引っかかっちまったもんだな」
「依頼人のことを存分に知っておくことくらいは基本事項だと思って」
ぱちり、とぎこちない瞬きと共にそう告げて見せれば、肩を竦めた遠慮がちな笑顔が返される。 「そうきたんなら仕方ないな、まぁ」
記憶の糸をたぐり寄せるように、たおやかに――すこしかさついた唇をゆっくりと押し開くようにしながら、彼は答える。