創作BL│ 文庫│ 248頁 │ 700円 │ 15/09/20
「……どうしたの、カイ」
オレンジジュースにそっと口をつけながら投げかけられる言葉を前に、たおやかに瞳を細めるようにしながら僕は答える。
「いや、なんていうか。幸せだなぁって思って」
「どうしたのいきなり、おじいさんになったみたいだよ?」
クスクスと笑うその顔を見つめたまま、ドライフルーツとシリアルのたっぷり入ったヨーグルトをスプーンで掬う。すぐにしなしなのブヨブヨになるコーンフレークは苦手だったけれど、シリアルってなんでサクサクしたままなんだろう。マーティンに聞けば知ってる気もするけれど、どうせ聞いたって覚えられないだろうからいいかな、なんて思う。
「コーヒーと牛乳のストックが切れそうだよ。水はまだ大丈夫かな。あと、ハムはさっき使い切っちゃったみたい」
「スーパーまで後で行こうよ。確か、途中の公園でウィークエンドマーケットがやってるはずだよね?」
「こないだのおじいさん、また居るといいなぁ。犬がね、すっごく人懐っこくて可愛いんだよ。こげ茶でムクムクしててね、遠目で見るとぬいぐるみみたいにしか見えなくて」
カイに見せたいなぁって思ってたんだよね、すっごく可愛い子だったから。
慈しむように瞳を細めるその姿に、こらえようのない愛おしさが胸のうちで膨らんでそっと滲んでいくのを僕は感じる。
楽しいこと、嬉しいこと、新しく出会った素敵な物、目にした物。
離れていた間はネットの回線を通してしか分かち合えなかった物が、こうして共に過ごせば直接共有出来る。そのことは途方もなく嬉しくて、共通の思い出や経験が増えるにつれて、愛おしさはどんどん膨らむその一方だった。
植物園に海に水族館、近くの公園にブックカフェ、新しく出来たパン屋。特別な場所も、何でもない日常の中で訪れる場所も、マーティンと二人でなら何だって掛け替えのない時間になる。
お互いの部屋での、両親の居ない隙に目を盗んで過ごすひと時が殆どその全てだったあの時から僕たちの暮らしと愛のあり方は如実に変化していて、その日々がくれる喜びはまるで、掛け替えのない宝物のようだ。
一緒に沢山の時間を過ごすようになって、お互い新たに知ったことは沢山ある。
マーティンは僕とは違って寝起きが良くて、朝はいつも先に目を覚ます。
料理はだいぶ得意になったけれど、卵を割るのはまだ少し苦手。
顔を洗う時、鼻歌を歌うクセがある。(自作と既存のお気に入りの曲が半々ら しい、選曲は気紛れに変わる)
僕が恥ずかしがったり強がりを言ったりする姿を見るのが好きで、時々意地悪になる。(僕のことを意地悪だなんて言うけれど、マーティンだってそうだ)
キスをする時、耳を触るのが好き。
それから何より大切なこと。マーティンは僕のことが大好きで、僕だってマーティンが心から大好き。
沢山の時間と苦しさを乗り越えたその先で手にした、狂おしい程の幸福な恋をしていた。
録画したドラマを観て、それから少しだけ課題をして(その間のマーティンは持ち込んだノートPCで調べ物をしてくれていたようだった)、いい時間になったので簡単な食事をした後、きちんと着替えて約束通りに買い物に出ることにする。
支度をしているあいだ玄関先で繋いでいた手は、ドアが閉まるのと同時にそっと離す。
「外にいる間は友達同士でいよう」
少し残酷かとは思いながらも、これからの為に決めたルールがそれだった。
お互いの家族には全て打ち明けては居たけれど、学校ではまだ、同性愛者であることは隠し通そうと入学した時からずっと決めていた。恥ずかしいだとかみっともないだなんてことは勿論思っては居ない。無駄な波風を立てず、関わってくれる人たちを傷付けずに済む生き方が恐らくそうだと信じて、マーティンにも納得してもらったからだ。
この土地には同じ大学から留学に来た数名の同期生が居る。もし彼らにマーティンと手を繋いだり親密にしている所を見られでもしたら、その後どうなってしまうかは分からない。
「玄関を出たら手は繋がない。よっぽど人がいない所だとか、暗くて全然見えない時は特例ね」
「顔を近づけて話すのも止めだね」
「キスは元々、人前でするのははしたないと思うけれど……玄関のドアを閉めるまで我慢しよう。出来るよね?」
「そんなこと言われたら玄関先で最後までしちゃいそうなんだけど」
「……君、大人になってから明らかに大胆になったよね」
ちょん、と鼻を摘みながら答えれば「カイのせいじゃない」と笑いながら頬をつねられたのをよく覚えている。
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