若き船乗り団友太郎は、愛するお露との結婚と船長への昇進を目前にして無実の罪で投獄された。14年間の獄中生活の後、脱獄に成功し莫大な財宝を手に入れた友太郎は、巌窟島伯爵と名乗ってパリーの交際社会に現れ、自分を陥れた者たちへ壮大な復讐を始める。何度も映画化、ドラマ化された人気作。『巌窟王』の呼び名はこの作品から始まった。
(百八十八)蛭峰家(七)
話はおいおい枝葉が多くなってきた。三週間後と決まった武之助と猛との決闘はどうなるだろう。段倉の娘夕蝉と小侯爵皮春永太郎との仲はどのようになりゆくだろう。また全身不随の野々内弾正が請け合った華子と安雄との婚礼の調印は果たして妨げることができようか。すべてそれやこれやの別々の事柄が、知らず知らずに巌窟島伯爵の大復讐へ流れ込んでゆきつつあるのだ。そのさまはあたかも東西南北さまざまの方角に流れて、互いに何の縁もなさそうに見える別々の川が、その実自然に一つの大海へ流れ込んでゆくようなものである。これは天地の間に存する自然の道理、彼は人情の上に現れる大いなる天意というべきである。ここにはまず野々内弾正の件に立ち戻って話の歩を進めよう。
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口さえもきけぬ末路の英雄野々内弾正にどのような奇略がある。弾正のそばを離れぬ華子さえもかつ怪しみかつ危ぶんでいたが、この翌日はこの蛭峰家から二つの葬式が一緒に出た。一つはマルセイユから着いた米良田老男爵の死骸で、今一つはこの家で有国医師に毒殺と疑われた米良田老夫人の死骸である。何しろ悲しむべき事柄ではあるけれど、老いたる夫婦がおよそ時を同じくして死し、同じ日に同じ家から棺を出して、同じ所に葬られるとは世にいう偕老同穴[かいろうどうけつ]のことわざにかのうたものとして諦めるほかはないと、悔やみに来たうちのある人は言うた。何にしても主人蛭峰にとっては一方ならぬ取り込みというもので、これがために彼の大事の取り調べは日一日と延びている。
「ええ、このようなことさえなくば、もうとくに巌窟島伯爵というかの怪物の本性は分かっているのに」
と彼蛭峰は墓地に行ってまでつぶやいた。その心中の忙しさは察すべきである。しかし彼は忙しさに驚くような弱い男ではない。忙しさに連れ、ますます心が激しくなる方で
「なに、この葬式が済めば、すぐに華子の調印を済ませ、また即座に彼怪物の取り調べに着手するのだ」
と心に誓い、葬式の場所で早や会葬人の中から毛脛安雄を見つけだして、今夜ぜひとも我が邸に来て調印を済まされよと請うた。
安雄もこれには驚いた。何が何でも二つ葬式を出したその家で、その夜に婚礼の調印とはあまり心持ちのよくないことだから、せめては明くる日にとたって否[いな]み、その場はこれで別れたが、さて翌日になると、いよいよそのつもりで蛭峰の方では公証人をも呼び、すべて調印の用意を運び尽くして待っている。そのところへ安雄が来た。これが安雄と華子との二度目の顔合わせである。華子はあえて安雄を憎いと思うわけではない。家柄といい、男ぶりといい、かつは心ばえまで誰の夫として恥ずかしからぬ人ではあるけれど、ほかにこの人にまさる大尉森江真太郎があって、心が既にその人のものとなっているのだ。どうして祖父弾正がこの調印を妨げてくれるだろう。手段があるなら今その手段を施さねばと、ほとんど気が気でなく、調印のテーブルに向かっても幾たびか隠居所の方を振り向き、ただ胸をのみ騒がしているうち、いよいよ公証人が婚姻約定書を読み聞かせようとする間際になって、隠居所の方から多年弾正についている老僕忠助が急いで来た。華子はありがたいと思う心を押し隠してこれに向かい
「忠助、おじい様が急にお悪くでもありはせぬのか」
と問うた。
忠助「はい、先刻から何だかご様子が違っているように見えますから、いろいろと伺いましたら、婿となる方を一度も隠居所へ連れてこずに調印するとは不服だとのご立腹のようにわたくしには思われますので」
華子は父蛭峰の顔を見た。これは顔に父の返事が現れるだろうと思ってのことなんだ。蛭峰は眉をひそめ
「何だ余計な」
とつぶやき、さらに声を発して
「何も隠して調印するわけではなし、ただこのようなことは寸善尺魔とさえいうのだから、急いでいるのだ。調印が済めばすぐに毛脛安雄氏を隠居所へご案内してお引き合わせいたしますとそう申してくれ」
華子は大変と
「でもおとっさん――」
と叫んだ。けれど後に続く言葉は出ぬ。もしこの時に天から邪魔でも降ってこなくば弾正のどのような奇略も施すに由なくして、調印は無事に運ばれそうに見えた。
幸いなるかな、邪魔は天からは降ってこぬが毛脛安雄の口から出た。
「いや、これはまったくわたくしの失念でした。大事のお孫娘と縁組するのに、一度も祖父様にお目にかからぬとは、申し訳のない不作法です。とにかくご隠居所へ行き、一応お目にかかってきて、それから調印といたしましょう。公証人、どうか手間は取らせませんから、少しお待ちください」
と言って立った。これは必ずしも毛脛安雄でないとても言わねばならぬことである。人の孫娘を妻にするに、その祖父に顔さえ見せずに調印するとは、誰とて気の済まぬ事柄である。独り蛭峰のみは、虫が知らせるというものか、何だか今この安雄を弾正に会わせるはよくないように感じ、既にひそめている眉と眉との間を一層狭くしたけれど、引き留める口実はない。
「では、わたくしがご案内いたしましょう」
とて渋々立った。自分が連れて行きさえすれば、よし万一に何か面倒の起こりそうに見えてもすぐに引き分けて連れてくることができるのだ。華子も遅れずに立ち上がった。真におじいさんが妨げてくれることができるかしらんと、まだ危ぶむ念は胸に満ち満ちているけれど、とにかく一旦は虎口の難を逃れたのだ。いや、難を幾時の間か後へ送ることができたのだ。これに蛭峰の妻を合わせ四人打ち連れて隠居所を指して行った。そもそもこの隠居所において大いなる活劇が演ぜられるとは誰も知るものはない。