若き船乗り団友太郎は、愛するお露との結婚と船長への昇進を目前にして無実の罪で投獄された。14年間の獄中生活の後、脱獄に成功し莫大な財宝を手に入れた友太郎は、巌窟島伯爵と名乗ってパリーの交際社会に現れ、自分を陥れた者たちへ壮大な復讐を始める。何度も映画化、ドラマ化された人気作。『巌窟王』の呼び名はこの作品から始まった。
(八十四)ああ、無人島
一紳士が、森江一家の喜びを後に見て船に乗った時から早や八、九年を経た。その間かの紳士は何をしていることやら音も沙汰もない。もしこの人が、その船の窓の下で神に祈願を込めたとおり、復讐の固まりとなったのならば、定めしその後の月日を準備のために送っていることであろう。この人が森江家の善に非常な善を報いたように、悪人の悪に非常な報いを降り下らせるつもりならば、九年や十年もその準備にかかるだろう。いかなる力をもってするとも準備なしに大いなる仕事のできるものではない。
紳士の去ったのが千八百二十九年であったが、今は千八百三十八年である。もし準備ができたとすれば、果たしてどのような準備だろう。しかしまだどこへも現れてこぬところを見ると、まだ準備が終わらぬのかしらん。
この年の初めである。イタリヤの都ローマ府に、世界に名高いカーニバルという祭りがある。その盛んなことは、まるで全都を熱狂させるほどのさまで、およそいずれの国へ行ったとて、これほど愉快な祭礼はない。老いも若きも貴きも卑しきも、異形な服装をして仮面をかぶって誰とも分からぬようにして市街を練り回り、口々に歓呼して、菓子や花などの投げ付け合いをし、楽しみという楽しみはことごとく演ぜられる。まったく満都を快楽の舞台にしたようなものだ。
それだからローマのカーニバルといえば、各国から見物に行く。見物に行って自分も仮面をかぶって祭りの中の人となるのだ。
それはさておき、フランスからこの年のこの祭りを見ようとてわざわざ出張した人のうちに二人の若紳士がある。どうせ楽しみのためにわざわざ出張するのだから金銭には不自由のない人達だ。その一人は男爵毛脛安雄[けすねやすお]というのだ。これはこの物語の初めのころに、共和党の秘密倶楽部で暗殺されたように記した毛脛将軍の一子である。毛脛将軍の殺されたことについては、かの蛭峰検事補の父野々内らが深く疑われ追跡せられたことも読者が記憶しているところであろう。
今一人は子爵野西武之助[のにしたけのすけ]というのだ。これも記憶のよい読者には初めての名前ではない。野西子爵というのは昔団友太郎とお露を争うたスペイン村の次郎のことである。武之助は次郎とお露との中にできた息子なのだ。これは毛太郎次が暮内法師に話した物語のうちにも見えた。その子が今は二十歳を越して立派な青年になっている。
ことに父が今、飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがあるので、その子武之助まで交際場裡の引っ張りだこのようになっている。もっとも武之助は気質も容貌も骨格もすべて父母の良い部分のみを受けて生まれたのか、いいようのないできで、多少は学問もでき、取り分けて武術や体操がよくできる。およそパリーで娘を持てる母親としてこの武之助を娘の婿に欲しがらぬはないほどである。このような身分も、交際場裡の歓迎に飽き、どうか知らぬ人ばかりの中へ行って我が身の値打ちを試したいと思う心でイタリヤへやって来たのだ。自分の容貌と才知とだけでも、必ず至る所に大騒ぎをせられるだろうと、このように思うのが青年の常である。
安雄の方は外務省へも出仕したことがあって、かつて書記官見習いとして公使についてこの国へ来ていたこともある。今度も多少は公務を帯びている。それがために、国は一緒に出たけれど、途中で武之助と別れて独りフロレンスへ立ち寄った。ここで用事を済ませてローマで落ち合う約束になっている。ところが幸いにその用事がかねて期したよりも三日ほど早く済んだ。その三日をどのように暮らそうかといろいろ思案したが、日頃銃猟を好むため、地中海の島でウサギでも狩ろうと思い立ち、レグホーンの港から舟を雇うて、まずナポレオンのために名高いコルシカ島へ行った。けれどここには大した獲物もなかった。詮方なしに、せめてはナポレオンのいた跡でも尋ねようとしたけれど、これも別に見物するほどの物はない。何だか物足らぬ心地がするので、帰る舟中でどこかほかに通常の猟場はあるまいかと船頭に問うた。船頭は少し職業が違うから山で狩りすることは深くは知らぬ。二、三人の水夫と相談した末
「そうですねえ、モント・クリスト島なら、誰も人が住まっていぬから、鳥や獣もまだ鉄砲の恐ろしいことを知らぬでしょう」
と極めて簡単な鑑定でクリスト島へ案内することになった。何しろ無人の島で猟をするとは、物の本にあるロビンソン・クルーソーの身の上にも似ているから、帰国の後に話をして交際場裡をヤンヤと言わせることができるだろうと、当人も大いに乗り気になって舟を急がせた。
ああ、モント・クリストの無人島。十年以前に、ここに団友太郎が宝を探り、引き続いてタスカニーの政府から全島を買い入れたことはこれも読者の知っているところである。今はどのようになっていよう。果たして無人のままだろうか。安雄は果たしてどのような獲物の話を交際場へ持ち出す人となるのだろう。