金満家の寅林判事が屋敷で殺され、秋葉探偵の捜査が始まる。
探偵は、離魂病の養女芳山緑、緑嬢との結婚を巡って判事と対立
していた甥寅林勇人、勘当されて貧苦にあえぐ実の息子寅林鉄雄を
嫌疑者として捜査していく。
「巌窟王」「幽霊塔」を著し、江戸川乱歩から宮崎駿まで
後世に多大な影響を与えた明治のベストセラー作家黒岩涙香。
涙香にはこれまで書籍化されていない作品があった。
未完のため埋もれていた長編を初単行本化。「政治家」他1編収録。昼間よりの職務の疲れに余が嵐の音を聞きながらひと眠りして目を覚ませし頃なれば、翌朝もなお四時ごろならんか。枕元にかけたる電話の呼び鈴あたかも余がための目覚ましのごとく急がわしく鳴り響くにぞ。さては中央警察署より何か至急の仕事を命じ来しものなるかと、余は眠き目をこすりながら電話機を取り上げて耳に当つるに
「秋葉君、秋葉君」
余「はいはい」
電「大変だ、大変だ。すぐに寅林判事の宅へ出張してもらわねば」
と命ずるは確かに署長の声なれば
「へへえ、何か非常な事件でも起こったのですか」
長「そうさ、起こったから出張を命ずるのだ」
余「一体どのような事件です」
長「判事が殺されたということだ。早く行って詮索したまえ」
余「おやおや、あの金持ち判事の寅林公がですか。これは驚いた。したが、よく早く分かりましたね」
長「たった今、判事の甥[おい]寅林勇人[とらばやしいさんど]という者が知らせてきた。君の参考までに言っておくが、甥の様子に多少怪しいところもあるようだ。そのつもりで注意したまえ」
余「分かりました」
長「電話を切るよ」
余「よろしい」
長「さようなら」
余「のちほど」
と言うより早く余はそこそこに仕度して寒風を横に切り、判事の屋敷を指して急ぎ行きしに、屋敷を巡れるレンガ塀の角に立つ常夜灯、雨風に消され損ないぼんやりと光を残せど、天なお明け離れぬ頃なれば無きよりはましならんか。ともあれ今までに不評判も聞かぬ寅林判事が非命に死すとは、金銭に目がくれて忍び入りたる盗賊などの仕業なるか、それとも深き子細あるにやと怪しみながら塀に添い二、三間進み行けば、かなたよりシズシズと歩み来たる一巡査あり。まず試みにこれに問うも何かの足しにならんもしれずと近寄りて透かし見るに幸い知り合いの巡査なにがしという者なれば
「これ、なにがし君、君は何時ごろからこの辺を巡回している」
巡「誰かと思えば秋葉さんですか。さようです、一時間ほど前からです。まだ交代には間があります」
余「交代なぞはどうでもよいが、今夜何かこの屋敷に変わったことがあるようには見えなんだか」
巡「別にそうも見えません。このとおり静かですから。ですが何事かありましたか。え、何がありました。あなたが出張なさるからには、きっと何事かあったのでしょう」
余はもとより詳しく言うべき必要もなきことなれば
「なにさ、紛失物の届け出であったからさ」
巡査は急に思い出せしごとく
「え、紛失物、それでは思い当たることがありますよ。先ほどひとしきりひどく降った時があったでしょう」
余「ああ、今より一時間ほど前に」
巡「さあ、その雨がやんで間もなくこの塀の外で変な男を認めましたから、もしやこの塀の崩れているところを乗り越して庭の中から出て来たのではあるまいかと思いましたが、何だか酔ってでもいるように足がヨロヨロしていましたから、まさか庭のうちから出て来たのではあるまいと思い、そのままわたくしは見逃しましたが、そうだ、あれが曲者[くせもの]であったかもしれません」
これこそは、ことにより意外の手がかりとならんもしれねば、余は急ぎて塀のうちに行かんともせず、問えるだけは問いおかんと
「何だ、曲者かもしれぬものをそのまま見逃すということがあるか。職務柄にも似合わない」
巡査はしばし考えて
「いや、曲者ではありませんよ。両手ともに何も持ってはいませんでした」
余「持っていなくても曲者でないと限らぬ」
巡「だって泥棒なら必ず何か持っているはずですが」
余「誰が泥棒だと言った」
巡「あなたがたった今紛失物だと」
余「そうさ、紛失は紛失だが、品物ではないのだよ。人の命だよ」