若き船乗り団友太郎は、愛するお露との結婚と船長への昇進を目前にして無実の罪で投獄された。14年間の獄中生活の後、脱獄に成功し莫大な財宝を手に入れた友太郎は、巌窟島伯爵と名乗ってパリーの交際社会に現れ、自分を陥れた者たちへ壮大な復讐を始める。何度も映画化、ドラマ化された人気作。『巌窟王』の呼び名はこの作品から始まった。
(一)団友太郎[だんともたろう]と段倉[だんぐら]
ナポレオンがエルバの島に流されて早や十か月ほどを経た千八百十五年二月二十九日である。地中海の東岸からちょうどそのエルバの島の付近を経てフランスの港、マルセイユへ巴丸[ともえまる]という帆前船が入ってきた。
これはこの土地でよほどの信用ある森江商会の主人森江[もりえ]氏の持ち船であるので、波止場に居合わす人々が、立ってその近寄るさまを見ていると、既に港の口を入っているのに、何故か岸のそばへ来るのが遅い。何か船中に間違いがあったに違いないとの心配が言わず語らず人々の胸に満ちた。
けれど船そのものに故障ができたとは見受けられぬ。船は無事に前、中、後、三本の柱に帆を上げ、舳[みよし]には水先案内のそばに年十九か二十歳ばかりの勇ましい一少年が立って、ほとんど船長かと見ゆるほどの熟練をもってかいがいしく水夫らを指図している。それだのに何とのうただならぬところがある。
陸にいた人々のうち、一人は、もはや気遣わしさに、むなしく待ってはいられぬというふうで手早く岸の小船に飛び乗り、自分で漕いでその傍らまで漕ぎ着けた。これはこの巴丸の持ち主森江氏である。漕ぎ着けて上にいるかの少年に声をかけ
「ああ団君か、どうしたんだ、船中総体が、なんだか陰気に、ふさぎ込んでいるように見えるが――」
団と呼ばれたるかの少年は主人への敬礼に帽子を脱ぎ
「おお森江さんですか、誠に不幸なことができました。船長呉氏がイタリヤ沖で死なれました」
船主森江は
「して積み荷は、積み荷は」
団少年「それだけはご安心です、荷物に子細はありませんけれど、いたましい呉船長は――」
森江「あやまって海にでも落ちたのか」
団「いいえ、急な脳膜炎で死なれました」
言いつつも少年は水夫を顧みて帆のことから、錨[いかり]のことにまで指図を与うるは、船長の死んだため自然自分が指図の役だけを勤めていねばならぬためであろう。指図が済むとまた持ち主の方に向かい
「イタリヤの港を出る時、船長は港係の長官と長い間熱心に何かお話しでしたが、それからというものはひどく心配のご様子で、間もなく今申す脳膜炎となり、三日三夜苦しみとおしてついに最期を遂げられました。その亡きがらはギグリョ島の陰へ式のとおり水葬しまして、勲章と剣だけを細君へ届けるため我々が持ってきました。ほんに十年間も英国との戦争に従事した人だというに惜しいことをいたしました」
森江氏は慰めて
「嘆くな友太郎、誰だとて一度は死ぬるは。え、年取った者が死なねば若い者が出世ができぬ」
言葉のうちには暗になんじを船長に取り立ててやるとの意が見えている。
もっとも無理はないところであろう、かかるうちにもこの少年団友太郎が水夫を指揮するさまを見るに、規律が良く立ってあたかも自分の指を使うように自由である。
森江氏「まず荷物にさわりがなければ」
団友太郎「はい、荷物のことはどうか荷物取締りの段倉君からお聞きください。今度の一航海はよほどもうかったということですから」
言いつつ船べりに縄を下ろせば、森江氏は水夫も及ばぬほど巧みにこれを攀[よ]じ、すぐに甲板に上がってきた。そうして団少年がなおも忙しく指図している間に、ここへ出て来た荷物係の段倉という男に向かった。
段倉は団友太郎より年が五、六歳も上であろうか、眼に油断のならぬ光のあるは、なんだかゴロ猫のように見え、何から何まで団とは大違いである。団が水夫らに敬われ愛せられているのと同じ割合に、段倉は憎まれ嫌われている。けれど主人の信用を得ていることは団と似寄ったものだと見える。
主人森江氏「聞けば段倉君、呉船長が死んだそうだが」
段倉は目下へ向かって非常に厳しいとともに、上に向かっては非常に丁重だ。まず声からやわらげてかかり
「はい、どうも早やお気の毒にたえません。森江商会のような大信用ある商社の船を預かるには、とてもあのような老練な方でなければ」
と早や団少年が船長に取り立てられはせぬかと、主人の顔色を読み取ってねたましさに予防している。予防と見せずに予防するのが段倉の段倉たるところである。
森江氏「なに、船を預かることは、友太郎のような少年だとて、少しもかわったことはないよ。実に友太郎は、慣れたものではないか」
と言いつつ団少年の方を見返れば、段倉は目にまたもうらやましさの光を現し
「はい、自分ではひとかどできるつもりでいるようです。少年というものはとかく自信の強いもので、船長が亡くなられるとすぐに、誰にも相談せずに、自分が指図役になったところなどは、感心なものですよ」
何だか言葉のうちに毒がある。その毒を甘い蜜のように聞かせるのだ。
森江「もちろん友太郎は船長の手助けに乗っているのだから、船長の後をとりあえず引き受けるのがその義務というもの。誰にも相談する必要はないのじゃ」
段倉「はい、それはそうでしょうとも。けれどそのおかげで、エルバ島の所で船を一日遅らせてしまいました」
エルバ島とは耳につく言葉である。普段なら何でもないが、時が時だけ耳につくのだ。今にこの島から、天地もくつがえるほどの風雲を巻き起こしはせぬかとは誰も気にしているところである。果たして森江氏は耳をそばだてた。
「え、かのエルバの島で船を一日、どこか船体に損所でもできて」
段倉は得たりと
「なに損所ができますものか。ただ自分で上陸してみたいというつまらぬ望みのほかには何の原因もないのです」
これは船主として聞き捨て難いところである。船の指図を引き受けた者が自分の慰みに一日の航路を遅らせる道はない。森江氏は友太郎の方に向かい
「団君、団君」
と呼び立てた。
団少年は指図の最中である。振り向いて
「少しお待ちください」
と言ったまま、水先案内に力を合わせ、水夫に錨を下ろさせている。段倉はもう主人の顔色を見て「我が事成れり」と思うた様子で荷倉の方へ引っ込んだ。その後へしばらくして団少年は来た。
「何かご用事ですか」
森江氏「用事とて、実はエルバ島へ一日船を着けていた子細を聞きたいのだ」
団少年はよどみもせずに
「はい、呉船長の遺言を果たすためでした。船長が死に際に、何だか小包物をわたくしへ渡し、これをエルバの島にいるベルトラン将軍に渡してくれと言われました」
呉船長はナポレオンの元に戦った人であるから、無論その党派である。ベルトラン将軍とも何か気脈を通じていたに違いない。かかる人を船長に雇うておく森江氏とても実は心をナポレオンの方へ寄せている人だから、この返事を聞いて、たちまち顔が晴れ渡ったようである。
「して将軍に会ったのか」
友太郎「会って手渡しいたしました」
森江氏は辺りを見回し、ずっと声を潜めて
「皇帝には拝謁せなんだのか」
皇帝とは無論ナポレオンのことである。
友太郎「はい、わたくしが将軍と会っているその部屋へ、ズカズカと皇帝がおいでになりまして」
森江氏「それじゃお前は、皇帝とじきじきに話もしたのだな」