──「怪物を、知っている?」
浮世離れした美しさの男に、歪んだ恋心を抱く平凡な女の悪夢と現。とある儀式から救われ、神さまに囚われた少女の生活。人の死から逃れられない劇団員と、人の死に取り憑かれたライター。全てに色濃く絡みつく曖昧な『怪物』の影。儚く壊れゆく日常と、その末路を描く、連作短編集。
試し読み(本文抜粋)
『いとしい』
話を、聞いてくれますか?
私、悪い女なんです。
でも、あの人が、いちばん悪い、神さまでした。
・
車内の空気感がいつもと違う気がして、心地良かった夢うつつから醒める。イヤホンを片耳だけ外すと、低くボソボソとした声がアナウンスをしていた。耳を澄ますと、断片的に情報が聞き取れる。安全確認のため停車中、運転再開時刻は未定。駅に一時停車しているようだった。
もう夜も程よく遅いというのに、金曜日の電車は混み合っている。扉が開いていても、こもった熱と、淀んだ脂や雑なアルコールの匂いで息苦しい。こういう時だけ、職場の匂いがやけに恋しくなる。
仕事を思い出すと、どっと疲労が押し寄せる。このところ、遅番に残業、さらには人手不足による連勤が重なり限界が近かった。最後の品出しを終えて、明日は一先ず休みだと思うと涙が出そうだった。どうせ帰って風呂も入らずに寝るだけで、どんなに止まっていたって座れているだけマシだ、と重い頭でぼんやりしていると、隣のサラリーマンと肩が当たりそうになり、僅かに身を捩る。
眠気は無くなってしまったし、鞄の中の文庫本は休憩中に運良く読み終えてしまった。手持ち無沙汰に何となくスマホの画面を点灯させると、まるで見計らったようにメッセージの通知が来る。この時間は誰であっても返信する気力も無いなと思いつつ、通知欄を開くと恵さんからだった。
『こんばんは。もしかして、まだ外ですか?』
次の流れを想起して、目線を右上の電光掲示板にやって駅名を再度確認する。彼の自宅は隣の駅が最寄りで、この駅から歩いても一〇分ほどだ。挨拶のスタンプを見繕って、『おつかれさまです』と無難なものを送ってから、温度感を誤らないように慎重な言葉選びでメッセージを綴った。自然と、キーを打つ指が軽くなるのを感じる。
『こんばんは。残業していたので、まだ外です。電車、K駅で止まってしまって……。しばらく動きそうになくて』
すぐに既読がつく。小さく息を吸うと、白檀の仄かに暗く重たい香りを思い出す。彼と、彼の部屋が纏う沈んだ静けさの残り香に、脳味噌の端に仕舞われている記憶が花開く。
『僕も仕事終わりでした。歩いて帰るところ』
『駅近くまで来ているので、すぐに迎えに行きますよ。改札口で待っていてください』
『明日はお休み?もし良ければ、泊まっていって』
別に、誰彼構わず着いて行くような寂しがりの馬鹿ではない。少し前の自分と比べれば、寂しさは鳴りを潜めたように思える。
ただ、彼に対しては特別な感情がある。彼も、私に対して悪い風には思っていない、はずだ。思い違いだったら、私はとんだ間抜けとなる。しかし、それでもいいとさえ思ってしまうほど、彼は私にとって魅力的な人だった。
出会って、今月で半年は経つだろうか。お互いの家が然程離れていないということや、私が通っているカフェが彼の職場であることから会う頻度は高く、悪い空気感も今のところは無い。
すみません、と小さな声で塗り壁のような人々の間を縫ってホームへ降り立つ。初夏の涼しさが、纏わり付いた澱む空気と眠気を洗い流していった。ふだん下車しない駅は、浮ついた緊張感と夜の静けさの中にある。
彼が来るまではまだ時間があるだろう。改札外のコンビニで何か差し入れでも買おうか、と悩みながら改札に出る。明るさも虚しく、機械音だけが響きわたる改札口。がらんとしたそこに、やけに目立つ人がスマホを片手にダラリと柱にもたれている。予想外に早い到着だ。
「恵さん」
少し小走りに改札を通り抜ける。足音と呼び声に気付き、『彼』は顔を上げた。流川恵。完成された姿の成人男性。彼の黒く、肩よりも下まである髪と、長身。それだけでも十分に目を引く。
おまけに、いつ何を着ていても様になる。今日は、白いワイシャツに黒のスラックス。見慣れた服装だ。
恵さんは、私を視界に捉えると、口の端を片方だけあげて悪戯っぽく笑った。
「こんばんは、來果さん。驚きました?」
そう言って、私へ目線を合わせるようにして少し背中を丸める。恵さんの長い前髪が揺れて、前髪の隙間から奇跡的な造形の一重が良く見えた。そして、瞼の奥から覗く、仄暗い輝きと目が合ってしまう。彼が放つ雰囲気は、不思議だった。不思議という一言では物足りないが、表現するのも難しい。並べ立てることは出来る。美丈夫、儚い、落ち着いている、浮世離れしている、とか。
『ぼうきゃく』
――自殺だった、らしい。
何度見ても、足が竦む。あの、階段の一番上から落ちたのだと聞いた。新聞の小さな記事にも、ネットニュースの片隅にも、そう書いてあった。そんなことをする人ではないのに、そうだと言われたら、そうなのだと思うしかない。死人は事実も持ち去っていく。
数日前まで歩道橋の足元へ添えられていた花やペットボトルは、どうやら片付けられたらしかった。もう数週間が経つ。結局、弔いらしいことはしなかった。だって、本当なら私と彼は全くの赤の他人のはずだったのだ。彼には愛する人もいた。
それから、もう、死と向き合いたくなかったのだ。
頬に冷たい感触が走る。いけない、昼からは雨の予報なのだ。帰らないと、と踵を返そうとした時だった。
「どうしたんです?」
頭上が暗くなり、誰かが傘を差し出したのだと振り返る。しかし、知らない男がすぐ後ろに立っていて、慌てて傘の外に出た。
「あはは、ごめん。こんなとこで突っ立ってるから、大丈夫かなと思って」
「す、すみません」
男の横を通り抜けようとする。少し躊躇う気持ちがあった。雨粒が増えてきているが、傘を持っていない。
「待ってよ。高井のことでしょ」
「え」
死人の名前が出てきて、思わず振り返った。男は、どんよりと曇っているのにサングラスをかけて、蒸し暑いのに長袖だ。ハーフアップにしてある派手な赤髪が、やけに眩しく見えた。
「やっぱり」
そう言って一歩、距離を詰められる。整った印象を受ける顔に似合わない、厭らしい笑顔。不審者の問いに振り返るべきではなかったと後悔する。
「いやな顔しないで。私、高井のこと調べてんの」
私、とこの人が言うと妙に色気があった。近くで見ると、中性的な感じが強くなって、人間像が曖昧に揺らぐ。
もう一度傘の影が落ちる。ビニールではない、丈夫そうな黒い雨傘の中は暗かった。
「高井の知り合い?」
「えぇ……。まぁ、知り合い……」
そう聞かれると居心地が悪く、曖昧な返事を数度返す。すると、何がお気に召したのか、今度は人当たりが良さそうな笑顔を見せる。
「私は志ヱ斗。フリーのライターやってる」
シエト、は『志ヱ斗』とだけ書かれた名刺を差し出してくる。他は真っ白で、名前を紹介するのみの物のようだった。
「時間ある?ちょっと話そうよ。そこの喫茶店でいい?」
志ヱ斗のサングラス越しの目を見て、小さく頷く。残念ながら、時間は山ほどあった。志ヱ斗はいつのまにか傘と反対の手にライターとタバコを握りしめていて、足早に指差した方へ歩いていく。濡れたくなくて、無理に歩幅を合わせた私の手の中には、いつの間にか名刺が握られていた。
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