自分の意思を持たず、ただ忠実な牙であり続ける「虎」。自ら育て上げたその牙に、苛立ちという矛盾を募らせる「刃」。歪な義兄弟の絆と共生。男たちの孤独と矜持が交差する、本格極道ブロマンス。
表題作『チーグル&スカリペリ』の他、リライト再録『チーグル&ブリートヴァ』、書き下ろし短編『Накопление(ナコプレニエ)』の三篇を収録。
これは、二人がまだ「二人だけ」で歩いていた頃の、ある昏い夜の記録。
アルファポリス等で連載中のヤクザBL『ぬきさしならへんっ!』前日譚としても、単独でのブロマンス連作としても楽しめます。
「真面目にやっちゃって、バカだね〜」
病院の薬局、待合いのベンチに掛けた国枝聖(くにえだ せい)が、愉快そうに喉を反らした。髭を生やした口元には、棒付きのマスカットキャンディーが咥えられている。
「申し訳ありません、迎えに来ていただきまして」
抗生剤の入った袋を片手に、景虎は頭を下げた。傷口は縫合され、包帯が巻かれている。手に開いた穴の中を生理食塩水で丸洗いされた時には、さすがに脂汗が止まらなかった。
「とんでもない。王子様を迎えに来るのは、従者の仕事でしょうよ」
皮肉を一つ、国枝は立ち上がると、恭しく頭を垂れた。スーツ越しでも、細い体つきがよく分かる。
病院の駐車場には、白いクラウンのマジェスタが停まっていた。国枝と景虎の姿を認めると、運転手の男が降りてきて、後部座席のドアを開けた。
「お疲れ様、景虎。一銭にもならないことをやってもらって悪いね。でもさあ、自浄作用がないとダメだから、極道ってのは」
白いカバーのついたシートに背を預け、国枝は言った。先ほどの男は織原組の構成員だが、違法薬物売買のみならず、自分や自分の女に覚醒剤を使っていた。
「お忙しい時に、すみません。国枝さん、もうすぐご自分の会社を興されるのに」
景虎が国枝の隣に座ると、ドアが閉まった。ほどよく柔らかい背もたれの感触に、少しだけ気が緩む。国枝は唇に飴を挟み込んで、少し考えるような顔をした。
「別に〜? お金儲けも兼ねて、必要だからやるだけだしね」
国枝が見上げた窓の外を、夕雲が流れてゆく。もうすぐ夜だった。
「さっきの、クスリ売ってた彼みたいに、これからは裏一本でやっていけないヤクザがもっと増えていくから。だから正業としての箱がなきゃね。最近は締め付けも厳しいしさ」
国枝は、今までやっていた闇金融の仕事をきっぱりと辞め、新しく事業を始めることにした。正式な会社としての、フロント企業の立ち上げをするのだという。
「必要なら、俺を使ってください」
どういう意味? と、国枝が問いかけると、景虎は血の気の引いた形の良い唇を、ぽつぽつと動かした。
「会社でもし厄介事なんかがあれば、遠慮なく使ってください。俺の命は織原のものですから」
「……ねえ、もっとこう『国枝さんと一緒に働きたいです!』とか、可愛いこと言えないの?」
「一緒に……? いえ、それは。ご迷惑だと思いますので」
国枝はめんどくさそうに景虎を一瞥すると、口の中のキャンディーをバリバリと噛み砕いた。
「それ、もうすぐ完成しそうじゃん」
半袖から覗く、刺青の青い額を指す。五分の見切りが、鮮やかに景虎の白い肌を染めている。
「はい。あとは、肩の色を入れればひとまずは終わりです」
「なんでそんな、ヤクザ丸出しの彫り物にしたわけ? 気合入りすぎでしょ」
「ヤクザですから、俺は」
景虎は、黒く長い睫毛を伏せる。
「それ以外、できませんから」
気持ちが揺るぎないことを示すために、身体に人非人の証を刻んだと、景虎は言った。
景虎はまだ二十歳。九つも下のガキのくせに、何が『それ以外できない』だ。
棒だけになったキャンディーを備え付けのゴミ箱に捨てると、国枝はポケットからタバコを出し、少し苛立ったように火をつけた。赤いマルボロの、キレのある匂いが車内に満ちる。
「禁煙失敗だわ」
ーーー中略ーーー
駐車場へ向かう暗い裏道の街灯はまばらだ。二人の影が、幽鬼のように伸びては消える。
「ハンカチはクリーニングに出して、お店に直接届けます」
「……景虎はさあ、恋人とか作る気ないの?」
こんなこと俺が言うのもなんだけど、と国枝は冗談めかして付け加える。景虎は歩調を乱さず、暗がりの先を見つめたまま答えた。
「はい。繁殖したいと思う相手がいないので」
「人間って、そんなんじゃないでしょうよ。恋をして好き合って、いつの間にかそうなるんでしょ」
「国枝さんが色んな女の人と遊ぶのは、恋だからですか?」
成人男性とは思えない問いだが、芯を突いている。国枝は自嘲気味に息を漏らした。
「俺のは、別にそういうのじゃないよ」
好きでもない異性と寝て、自分をすり減らす。国枝にとってそれは恋や癒やしなどではなく、他人を使った子供っぽい自傷行為だった。決して人のことは言えないのに。
「……わからない、すごく難しいです。国枝さんは、俺みたいな人間がこの先誰かと……」
言いかけた言葉が、アスファルトを叩く硬い音で遮られる。静かな路地に金属を引きずる音が反響して、二人は立ち止まった。
正面に、三人の男。背後から回り込む、二人の気配。
「国枝さん、いけますか」
平坦な景虎の声に、ほんの僅かに熱が乗る。それは、心のないブリキの木こりの関節が駆動する、機械的な摩擦だった。しかし、摩擦熱だとて、熱は熱だ。
「誰に言ってんの、怪我人のくせに」
国枝がネクタイを緩める。襲ってきた男たちには、うっすら見覚えがあった。かつて国枝が潰した商売敵だ。
「おい国枝ァ! お前だけ闇金から足洗ってトンズラしようったってそうはいかねえぞ、二度と歩けねえ身体にしてやる!」
鉄パイプが眼前に、横薙ぎに迫る。国枝は逃げなかった。
顎を引くように最小限の動きで先端の軌道を避けると、振り切る前の手首を掴んで強引に引き寄せる。
呼びかけずとも、景虎はもうそこにいた。男がバランスを崩し前のめりになった瞬間、景虎の膝が男の顎を、弾丸のような衝撃とともに跳ね上げる。