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信号の青が来た。サナはアクセルを踏む。
「それでね、街の端っこにある森林公園にしようと思ってたんだけど」
助手席に座っているリョウヤに告げると、頷いているらしい。わずかな空気の揺れが、前方を見据えるサナの左の耳とほほを撫でる。車内の芳香剤にかき消されることなく、リョウヤの体臭と整髪料の混じった特別な香りを、サナは捉える。
「いいよ。でももう真っ暗だろう。俺は別にかまわないけど」
明日は海の日が来る。国道沿いの飲食店やガソリンスタンド、コンビニも夜を持て余してネオンをちかちかさせている。
「もっと広い場所が思い浮かんで」
リョウヤは私のどこが好きだと言っていただろう。サナは三つ先の信号に目を向ける。
最後まであきらめないところ。なにがあっても。そんな姿見てたら俺も頑張ろうって、思えてくるんだ。リョウヤの低くてかすれた声が、思い出されるのをいつでも待機しているみたいに、あっという間にサナの脳で再生される。
「いいよ。サナにワガママを言ったのは俺だから」
リョウヤが言った途端、サナの中にある感情の渦がはいっている引き出しが勢い良く開き、サナの身体中をうねるように湧きだし、しくしくと這いずり回った。
「ワガママなんかじゃないよ、あれは。ワガママなんて言わないよ」
FMから流れる洋楽をかき消す声をサナは吐いた。ゆっくりと、乾いた声に自分でも驚く。握っていたハンドルにツメが食い込んでいく。
「ごめん。でも別れてほしいって言ったのは俺だから」
だからそれはワガママとは言わないんだよ。そう叫びたかったけれど、どうにか押し殺した。
それはワガママではなく、一方的な宣告であり、ノーとは言えない宣告でもあった。
「リョウヤの髪、ほんとに切ってもいいの?」
「俺が悪いんだから。すっきりするよ、たぶん、お互いに」
お互いに。サナはスッキリするなんて想像しがたい。リョウヤの心にえぐるような傷をつけたい。エンプティに近づいているメーターに目をやる。この手で切るなら広いところでゆったりと、できるだけ遠い場所。行ったことのない領域まで。信号の赤がきた。
「ありがと」
かろうじて、柔らかい声色でサナは言う。
「いいよ。サナは俺の髪、触るの、好きだよな」
今日は有給をとって、二人で水族館に行った。リョウヤは深海魚のコーナーに長い時間見入っていた。サナの目に似ていると言ったけれど、あんなふうにぎょろぎょろした目ではないと頬を膨らませてみせた。サナの目が、きれいだよと、リョウヤはさらりと言う。
車内の時計は今日をカウントダウンしている。エアコンの風がリョウヤのネクタイを緩めた襟を揺らしている。喉仏を超えて、逆光になっているリョウヤの横顔へたどり着く。まっすぐに前を見据えていた。サナは山の稜線みたいな横顔の輪郭を視線でなぞっていく。尖った鼻のさきと分厚い唇、控えめなアドから首元へと這いつくばるように。一つ一つの凹凸に指を引っ掛けてどんな旧な勾配でも登っていけた。
「サナはなんでも器用にこなすし、手も抜かない。そういう部分をすごく尊敬してる」
「それはそっちの勘違いだよ」
「だからいいよ。好きにしていいよ。髪以外も」
「やめよう。こんな不毛な会話」
「不毛な?」
リョウヤは言ったが、サナは返事をしない。
今もリョウヤに対する気持ちは残っている。分かれたいと言われてからは、さらに増した。当たり前に一緒にいると信じていたのに。それがなくなる日など境地にも至らなかった。
いや、それは強がりだ。熱さのさなかにいるときは、熱風さえ気にならない。
時が刻まれていくのと同様に、リョウヤへの気持ちが一瞬たりともとまることなく、からだに刻まれていく。刻まれる痛みが心地よかった。もっと深くまで刻んでほしかった。
新人研修で同じグループになったリョウヤと、毎晩戦略を練った。トラブルが起きてもあきらめないサナに、リョウヤは同調した。一枚の書類を二人で見る。つい顔が近づいて、リョウヤの髪が、サナのほほに触れた。ほほからの刺激がからだじゅうを駆け抜け、サナを締め付ける。唇が触れたみたいに、リョウヤの髪はなまめかしかった。柔らかくて、ふわふわした髪は、サナの神経を、支配した。
リョウヤの心変わりに気が付かないほどサナは鈍感ではない。今年入ってきた新人は、リョウヤの疲れを察し、コーヒーを淹れた。行き詰っているときは、笑顔を向けた。サナの持っていないものだった。
「そこのコンビニに、車止めるね」
コンビニでハサミを買った。エンプティの車をコインパーキングに乗り捨てる。ガソリンスタンドがあったけれど、時間をひき伸ばすために今日の終わりまで歩いていきたかった。時間がゆっくりと流れるみたいに、ゆっくりと進んでいきたかった。
歩くには蒸し暑いけれど、夏の夜を満喫するには十分だ。目的地には到底歩いてはいけない距離だったけれど、いつまでも二人で歩いていけるような気がした。
「この先に砂丘があるの。そこまで行ってみようと思うんだけど」
夜の終わりは近づいてくる。まだ終わっていない。信号の赤で足を止めて、ずっとずっと遠くに視線をやる。
「いいよ。行こう。歩こう」
この先とは、どれほどの距離なのか、リョウヤは聞かない。時間が止まるわけではないけれど、ゆっくりとゆっくりと歩いていく。
思い出話はしなかった。これからの話もしなかった。目に映る景色と空気の匂い、クラクションの音。話すことは尽きない。今この瞬間は、もう来ない。
「砂丘についたら、まず大の字に寝転がってみてもいい?」
「いいよ」
「リョウヤも一緒にだよ」
「いいよ
リョウヤは、小さく笑った。
これは、もしかしたら、最後の笑顔なのかもしれない。サナはうなじの汗を拭うふりをした。ふりをしたつもりだった。リョウヤへと顔を傾ける。汗が、次から次へと溢れてくる。背中を伝って汗は落ちていく。なんどもなんども落ちていく。
「ゴールがどこかわからないって状況、好きだよな、サナ」
リョウヤは相変わらず前を向いている。
「は? それ私じゃなくて、そっちでしょう」
「どっちでもいいか」
リョウヤの声を耳に感じながら、サナも前を向いた。まだ先へ。その先の世界を見たい。続いている道の途中で、歩みを止める理由は二人にない。
信号が青になる。
神様がいるなら、今日を終わらせないでください。
柄にもないことをサナは祈る。
続く
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