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椿説 山と水 下(黒岩涙香選集第3巻)

  • 南3-4ホール | え-87 (小説|海外文学・翻訳)
  • ちんせつ やまとみず げ くろいわるいこうせんしゅうだいさんかん
  • 黒岩涙香 編集 真壁雅彪 口絵 いずみチエ
  • 書籍|A5
  • 168ページ
  • 700円
  • 2025/10/5(日)発行
  • 幼なじみビディ姫の婚約者が孤島に取り残されているのを救出するため姫とともに南洋に向かったベネットは海賊に襲われる。逃亡して上陸した二人に奴隷商人のわな、急流の小舟に迫る滝、次々に困難が襲いかかる。婚約者に心を寄せる姫、その姫を愛する失意の人ベネット。ベネットは姫を守って奮闘する。

    本文試し読み

    (六十二)山道

    余はマシュウの後に従って山道を攀[よ]じた。マシュウのいでたちはもし昼間見たらば、どれほどか異様であろう。夜目にはよく分からぬけれどたくさんな荷物を持っている。余とくみ交わすためであったかの酒壺をまで提げている。本来この男は何事に付けてもよく用意の行き届く方であった。仕事よりも用意の方がうまかった。それがために余の伯父にも愛せられたが、このような困難の場合に立ってもまだその癖が抜けていぬと見える。

    余は笑って言った。

    「よくとっさの間にそのような七つ道具が揃ったなあ」

    彼は答えた。

    「なに、も少し宵の間ならもっとよく行き届きましたが、何分にも夜が更けて夜業の仲間さえ大抵は寝てしまった後ですから、やっとこれだけ盗み集めました」

    余はあきれて

    「何だ、お前はそのような品々を盗んできたのか。盗み物なら捨ててしまえ」

    マシュウ「あなたはまだそのようなぜいたくをおっしゃる。盗むのは当然ですよ。自分の自由をさえ盗まれてこのような所へ連れてこられているのではありませんか。わたくしは盗むのが復讐だと思って何でも盗みます。わたくしのみでなくこの土地の奴等は皆そうです。職工に至るまで、酒も盗めば時間も盗む。監督人の目をも盗みます。あなただとても、姫君を盗まれた上、命をも盗まれかけたではありませんか」

    余は一言もない。彼は語を継ぎ

    「なに、今にあなたはこの荷物をありがたいと思う時もありますよ。大抵腐らぬ食物ですから」

    余は今朝の食事以来、水一滴をさえ飲まぬことを思い出した。

    かく言ううちにも余はマシュウのひどく息切れのするのを見て取った。険しい山坂をば、荷物を持って登るためでもあろうけれど、確かに彼は酒のために健康を損じている。この向きでは長くこの旅を続けられそうには思われぬから余は言うた。

    「マシュウ、もし追っ手の目を逃げる所があれば少し休もう。実は余も空腹だから」

    マシュウは概然として

    「ああ、今のマシュウは前年のマシュウでありません。これぐらいの荷物が重い。力などは十分の一に減りました。そのはずです。早く死ぬように、死ぬようにと、体を持ち崩してばかりいましたもの。お言葉に甘えてこの辺で休みましょう」

    休んだら聞こうと、余も思っていることがあればマシュウも思っていることがある。二人はおよそ三マイルも歩んだ頃、石角のいくらか平らな所を選んで休んだ。第一にマシュウは酒壺を開き、荷物の中から盃二個を取りいだして

    「おお、喉が渇いた。さあ、ベン様、これを、これを」

    余はキッとして

    「これ、マシュウ、お前はおれと旅するなら第一に酒をやめねばいけぬ」

    マシュウ「はい、やめます。わたくしもやめねばいけぬと先刻から思っていますが、やめるに付いてはこれを飲み納めといたしましょう」

    ここまで持ってきたこの酒をまで、味わずに捨ててしまえと言うはあまり邪険でさすがの余も忍びなんだ。しかしなるべく量を少なくするため、半分以上は余が飲んでしまった。いかにも健康に障りそうなきつい酒だった。たぶんは工業に使うアルコールを台にして少しばかりの工夫を加えたに過ぎぬであろう。

    続いてマシュウは塩肉などを取り出したが、余はよほどの美味と思ってこれを食べた。食べながら彼に問うた。

    「姫はこの土地を何時ごろに立ち、どちらの方角へ向かっただろう。何か取り分けて姫の身に異変でもありはせぬのか」

    マシュウ「お案じなさるな。別にこれという異変のあるはずはないのです。ピノに取っては肝心の商品ですから、彼は大事に保護します」

    余「商品とは」

    マシュウ「ピノは姫君を誰かに売るつもりなのです。彼は手広く奴隷の仲買をしていますから」

    余「姫を奴隷にして商品のように売る。それを別に異変ということはないなどとお前の考えは根本から間違っている」

    余は腹立たしく叫んだ。

    マシュウ「いいえ、彼等が上等の商品を大事にすることは、ほとんどあなたがたの想像も及ばぬほどです。大事にした品物だけ値が高い。イギリスで育った良家の娘で、まだ男子の汚れを知らぬなどと言えばどこの植民地へ持って行ってもエライ値に売れますから、それはそれは親が箱入り娘を扱うより厳重にするのです。何でも彼は姫君を売って一身代作るつもりでしょう」

    果たして姫の身がそう厳重に、そう大事にせられるなら幾分か安心のようではあるが、それにしても奴隷商人の手にかかって、誰一人知る人のないこの絶域で、どこを当てとも知らずに連れ回られるその境遇を察しては、余は自分の身をかきむしりたいほどに思う。

    「姫の行く先はおおよそお前に推量ができるか」

    マシュウ「できますとも、まだよほどの間は一本道も同様ですから今夜泊まっていられる所も明夜の泊まりも明後夜の泊まりも分かっています。なに、この土地をさえうまく抜け出ることができれば一週間とたたぬうちに追い付くことができますよ」

    余「何だ一週間、お前は気が長いではないか。おれは今夜の明けるまでに追い付かねばならぬと思っている」

    マシュウ「いや、ベン様、姫君と分かったからには、早く追い付いてご無事なお顔を拝みたいとの心は、わたくしとてもあなたと同様です。決して気が長くはないのです。けれど急いては必ず仕損じます。何もかも全てわたくしの言うがままに任せて下さい」

    残念ではあるけれど土地の方角さえ知らぬ余は、彼に従うほかはない。実にもどかしさに堪えぬ。

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