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王妃の怨(黒岩涙香選集第1巻)

  • 南3-4ホール | え-87 (小説|海外文学・翻訳)
  • おうひのうらみ くろいわるいこうせんしゅうだいいっかん
  • 黒岩涙香 編集 真壁雅彪 口絵 いずみチエ
  • 書籍|A5
  • 102ページ
  • 600円
  • 2025/10/5(日)発行
  • スペイン、レオン国の武士査児(ちある)はレオン国王の密旨を受け、ムーア人の国グラナダ国に入り込んだ。身投げから救った少女小菊がグラナダ国王から輿入れを迫られていることを知った査児は、小菊の救出を決意する。グラナダ国から脱出する査児と小菊に追っ手が迫る。長年不明であった米国の原作が新たに判明。

    本文試し読み

    (一)若武者

    時は十四世紀の初めである。スペインの南部グラナダ国の都グラナダ市に、年々牛のけんかがある。それにも増して名高いのは、三年に一度の武術大試合である。

    グラナダの大試合といえば、いずれの国でも聞き知らぬ人はない。いやしくも武士といわれる者は、生涯に一度は、この大道場を踏み、この大試合に加わらねば名折れである。我こそはと思う剛の者が各国から詰めかける。真に晴れの場所とはこれである。

    けれどこの国は、他の国々と人種が違う、宗旨が違う、顔の色が違うのだ。人種はムーア人、宗旨はマホメット教、顔色は薄黒い。ずいぶん他の国々とひどい戦争をして、平和の時でも多少の恨みを残している。他国人がここに入り込むのはあんまり安全とはいわれぬ。

    いよいよ武術大試合の開かれる前日、この国のこの町を指しゴルジ河の岸に馬を立てた二人の武士がある。一人は年二十五、六、まだ美少年ともいうべき紅顔の若武者、一人は三十ぐらい、骨組みもかなりにたくましいが、装束で見ると若武者のしもべらしい。若武者はこの者に向かい

    「忠助[ちゅうすけ]、お前の馬はこの河を渡られるか」

    忠助「いや若旦那、上手に橋がありましょう。体を濡らすには及びません」

    河の上手へ馬を向けたが、果たして橋があった。これを渡りつつ、忠助は心配気に

    「ねえ旦那様、今度の御用は何事だか忠助は存じませぬが、大旦那様から気を付けてくれとの取り分けてのお言葉です。どうか大試合へはおいでなさらぬように」

    若武者「心配するな。出たところでレオン国の武士の名を落としはせぬよ」

    忠助「いいえ、あなたのお手並みは分かっています。レオンの原田査児[はらだちある]といえば名を聞いただけで相手がないかもしれぬけれど、今この国は政治も乱れており、勝ったところでどのような禍いを受けぬとも限りませぬ」

    査児は軽く笑い

    「心配するな、心配するな、我が陛下から大事を託されている身が、お前にまで心配させるようなことはせぬから」

    口には言えど心のうちは早や武者震いに鼓動しているらしい。

    並木雑木の中を通り、橋から十丁ほども行くと、馬が異様に耳を立て、行く手の臭いを嗅ぐようにその鼻を動かした。忠助はそれと見て

    「旦那様、気をお付けなさらねば、行く手に何者がいようもしれません」

    若武者もそうと思い、馬を止めて行く手を見ると、路傍に高さ五間にも余る岩があって、岩の下に、足をくじいた五十格好の男が悩んでいる。馬の認めたのはこれだ。顔色の薄黒いのでこの国の人とは分かっているが、身なりは立派でない。しかしひげのぼうぼうと生えた顔に多少の魂の見ゆるところは乞食とも思われぬ。この者は二人の姿を見、痛そうな顔して歩みいで

    「申しかねますがグラナダの町へ行くなら、馬の後ろへわたくしをお乗せ下さい。岩の上から滑り落ちて膝頭を砕きまして」

    忠助は叱るように

    「そうはできぬ。何だって又この険しい岩の上へ登ったのだ」

    男「日の目が恋しいものですから、入り日を拝もうと思いまして」

    忠助「日の目はいつでも見られるのに」

    男「はい、わたくしは夜に入るまでにグラナダへ着かねば大変ですから、どうかあなたの馬の後ろへ」

    忠助が返事せぬ間に若武者は鞍を譲り

    「さあ、このほうと一緒に乗れ」

    とて招いた。主人がこうまでするを見ては、黙っていられぬ。

    「ではわたくしが乗せてやります」

    とて忠助は馬を下った。男はありがたそうに査児の顔を見上げ

    「この御恩は忘れませぬ。さすがにレオン国の武士、原田様の若殿だ」

    査児は怪しみ

    「どうしてこのほうを知っている」

    男「馬具の御紋で分かっています」

    武士の家紋をそらんじているのはただ者と思われぬ。姿こそやつれているが――

    やがてこの者を忠助の馬に相乗りさせて町には着いた。この者は町の入り口で忠助に降ろしてもらい、痛い足を引きずりつつ礼を述べた。査児は顧みて

    「差し支えなくば名を聞いておきたいものだ」

    男「いや、名を申しても再びお目にかかることはありません」

    忠助は彼に向かい

    「せっかくのお尋ねだ、申せ。そのほうはこの町の者か」

    男「この町ですかこの国ですか」

    査児「名は、名は」

    男「名は幾つもありますが、この頃では人が阿武寺[あぶでら]とわたくしのことを言うのです」

    その上を言おうとせぬ。査児もその上を聞こうともせず別れた。別れる際に阿武寺は

    「旦那は明日の大試合においでなさることでしょうね」

    と問うた。

    査児「なに、そうでない。ただこのグラナダの町を見物に来たのだ」

    阿武寺「大試合はお気を付けねばいけません。この町に天下に敵なしと言われる剛の者ができましたから」

    と戒めのような言葉を残して、彼は足をひきひきいずれへか去ってしまった。

    この夜、査児は町の静かな所へ宿を求め、夕げの後に市中を徘徊したが、翌日は忠助の止めるも聴かず大試合の場所に行った。

    朝から国王マホメット六世が臨場して午後の四時まで各国の武士が、入れ代わり立ち代わり、あるいは槍、あるいは剣、あるいはなぎなた、思い思いの秘術を尽くしたが、最後に第一等の勝利を得たのは、当時国王のお覚えめでたきこの国の武士弁野判太[べんのはんた]という身の丈六尺に余る仁王のごとき荒武者である。彼は最後の敵を蹴倒して、試合場の真ん中に立ち、勝ち誇る声高々と

    「さあ、この上に相手はないか。スペイン、フランス、三十余か国の武士達は、弁野判太に月桂冠を握られて取り返す勇気はないか。羨ましくば腕ずくで取るがよい。武術をもって聞こえているレオン国からも勇士は来ぬか。来ても人の後ろに隠れているのか」

    満場、ひっそりと静まって、もはや相手のあろうとも見えなんだが、ただ一人この広言を聞きかねて、見物を押し割った者がある。他でない昨日の若武者原田査児である。彼が進もうとすると、何者か袖を控えた。

    「およしなさい、およしなさい」

    査児は袖を振り放したが、チラリと目先に留まったのは足をひきひき姿を隠せる昨日の阿武寺であった。

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