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・試し読み
『キルプの軍団』は「読んで書かれた」物語である。本の袖にあるあらすじを引いておく。「高校生の「僕」は、刑事の叔父さんとディケンズの小説『骨董屋』を原文で読み進めていくうちに、まるでそのストーリーが反映するかのように、とてつもない事件に巻き込まれてしまう。」私は、文学を研究することも同じだなと思った。「研究」という言葉が付かなくても、そうだ。私たちが生きている現実は大江健三郎の統御する物語世界ではないが、何かを読めば「とてつもない事件に巻き込まれてしまう」のは確かだ。その事件は「読むことそのもの」、少し格好をつけて言ってみれば「読むという出来事」なのだろう。そしてその出来事はかならず本と自分という二点の関係性から延長されて自分の生活と実感のすべてに展開していく。
ふと振り返ってみると、わかしょ文庫さんや友田とんさんなど、昨年の後半に惹かれた人たちの著作はいずれも「読んで書かれた」ことを自ら強調するような著作だった。二〇一四年にデビューし、二〇一七年以来文芸誌に作品を発表できないでいた私自身は、二〇二二の夏に小説家の太田靖久さんの『ODD ZINE』に参加したり、出身大学の先生が創刊した『ケヤキブンガク』という雑誌に寄稿したりして、小説家として恢復したように思ったが、実は「読んで書く人」として恢復していたのだろうか? だとすると、本書『ロビン』はこの私の恢復の記録なのである。
大江健三郎は何作か読んでいたが、この作品が自分の中で上位に躍りでた。「読んで書くこと」の原風景をそこにおさめていたからだ。自分にとって「外」であるようなものを読み取ること、読み取ったことを自分の言葉に変換し、また、誰かと話し合うこと、それで足りなければ対象について書き積み重ねられた記録にたよること(作品にはここまで書いてあったことに敬服した。研究をサボっている文学者よりもよっぽど「僕」と叔父さんは立派な英文学者なのである)、そしてそういった営みが自分の「生」に還ってくること。たとえその果てに傷つくことがあったとしても、人は読んで書くことをやめない。なぜならその傷を恢復させる瘡蓋の生成をも「読むこと」の可能性には含まれているからだ。 (「読んで書くことについて」)
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