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ちっとも懐かしくない町

  • 南3-4ホール | ち-43 (ノンフィクション|エッセイ・随筆・体験記)
  • ちっともなつかしくないまち
  • 奥山さと
  • 書籍|B6
  • 1,000円
  • 小説作品集

    試し読み「ほりほりクラブ」

     

     たくさん通知が届いている。こういうときは昔のことでも思い出そう。

     小学生のころ「墓穴」という言葉が流行った。墓穴の「ぼ」を墓と書くこと、「けつ」を穴と書くこと、誰も知らないでその言葉をカバンについたチェーンのように振り回していた。だから「ぼけつ」という音がどうして身を滅ぼすことを指すのかも知らない、書き方が分かったとしても墓を掘ることがどうして身を滅ぼすことを指すのかピンとこなかっただろう。子どもにとって墓は、とくに日本の墓はお寺の近くに並んでいる石の柱にすぎなくて、少なくともわたしにはとってはそうで、墓は掘られることで造られるものという想像力がなかった、人間の死体が地面の下、垂直に降りていくという想像がなかった。もしかしてヨーロッパに語源があるのかもしれない。そう思って実家のベッドの上で調べてみる。平安時代の陰陽道に関係がある、などという検索結果が一番目に出てきて残念だ。

     身を滅ぼす、と二回、口にした。小学校での「墓穴」はそこまで大層な言葉ではなかったと思う。「あ、しまった!」というときに口にするのが始まりだったと思う。くしゃみをしたあとにクサメクサメと口にするのと同じような感じだったと思う。しかしそれは大人になってからの後付けの解釈のような気もしていて、単に「あ、しまった!」「ちぇっ」「まずいな」という言葉そのものの代用品になっていた。子どもはそういう言葉を漫画やアニメで毎日浴びているけれど、子どもなりにそういう言葉があんがい漫画やアニメのなかにしか在り得ないこともなんとなく分かっていて、だから(ちぇっ)というときにも「ちぇっ」と口にする人はあんがいいないもので、子どもたちのあいだにだけそういう、感情を垂らすことのできる代用品の言葉が流行るのもいまではよくわかる。今日、分度器が必要なのに忘れちゃった。墓穴! 

     また通知がくる。最初は中国語や韓国語の勉強、地下アイドル、海外ドラマとかの、ただ趣味でつながっている集まりだったのに、眠れない夜、もしくは逆に、誰もが家の外で活動している白昼、誰もがどこかへ遊びに行く祝日、休日に、同じようにカーテンをしめきった暗い部屋のなかにいる同士で、気がついたらとても仲良くなっていて、直接会いたくなったりいまのままがいいと思ったりする。距離感をお互いにはかっているうちにいつの間にか墓穴を掘ってしまう。

     あのころの「墓穴」はもともと自分に向けて言う言葉だった。しかしだんだんと他人のしくじりを笑ったり責めたりする言葉になった。あの子が給食の食缶をひっくり返してこぼしてしまった。墓穴墓穴。あの子が全校集会でおしっこを漏らしてしまった。墓穴墓穴。おしっこは人類の歴史の中でいつも何らかの穴に流れていくものだと思う。体育館の冷たい床におしっこがしたたると、わたしたちは自分らがこんなにたくさんのおしっこを一日中出していることに驚いてしまう。どこの穴へも流れていかずにただ床を濡らしている液体に向かって墓穴墓穴墓穴、と指さすのは変だ。漏らした子も、それこそ、自分が死んで眠るべし穴に入りたい気持ちだっただろうけど、基本的に人類は日中、垂直上方向に立つことかそれを解除し座ることしかできないというのはむごい。もぐらではないから、わたしたちにとって潜ったり沈んだりすることは原則的に比喩となる。日常を比喩と誇示で塗り立てるSNSのような空間で、あいつはプロフィール欄に「立ったり座ったりしています」とだけ書いていてわたしはそれを卓見だと思っていまでもおぼえている。

     そんな事々をいまでもおぼえているわたしはいま横になっている。基本的に人類は日中立つことか座ることしかできないと言ったけど、「人類」という大きな言葉を使うからにはその普遍性がたくさんの存在を捨て去っていることをわかっていて使う。夜に寝るときはともかくとして日中も横になりがち。ただそれだけで枠内から外れる種族。同じ種族どうしでタテ的な生とヨコ的な生があることをたまに語らう。ヨコになったままタテに埋められていく夢想をよく聞かされる。いまも、そうだ。 

     死。あのころは性別にかかわらず諍いが激しくなるとすぐに「死ね!」と言い合っていた。それはわたしたちの世代的な言葉観もあるだろう。いくら仲が悪くなって腹が立つ思いに駆られてもそんな言葉は使わなかっただろう親や教師はわたしたちのけんかを見て心を痛めたかもしれない。このような場合にも「墓穴」は代用品として役に立っていたように思う。「墓を掘ってそこで死ね!」という意味で捉えれば実に適切な悪口だ。ところで「死ね!」ではなく、小学生のうちから(いまのわたしの一部の知り合いのように)「死にたい……」と口にする子はとうぜん目立った。そんなふうにカジュアルに「死にたい」と言うのは、何かの真似なのか、早熟な中二病なのか、冗談なのか、切実だったのか、わからないが、エリがふと「死にたい……」と口にすると周りをとりまいていた子たちはみんな、ぞわぞわしていたはずだ、わたしもそこにいた。エリの「死にたい」はとても大人びていたから、まず局地的に流行った。「死にたいクラブ」は当初バカでキモいやつらが何かキモいことを言っているという扱いだったが、ちょっとばかり辛いことや苦しいことが起こったときに「死にたい~」と口にしてみること、その不思議な開放感はすぐに学年中に流行ってしまった。たとえば、がさつで不潔で頭の悪い男の子も、赤点の答案が配られるとみんなの前で「死にたい」と笑顔で叫んで笑いを取っていた。児童の「死ね!」に心悩ませていた教師たちは、今度は「死にたい」に心悩ませたのだった。人類の基準で言えば、不健康だろう、人類の子どもたちがみんな死にたいとつぶやいているような社会なんて。エリの「死にたい」に込められていた甘美な響きは学校からもうとっくに消えていたのに、教師たちはわたしたちを「死にたい」を流行らせたグループとして呼び出し説教をして反省をさせた。そこに秀外恵中なエリはいなかった。うんともすんともパッとせず放課後に占いや絵描きばかりしていたわたしたちは、「死にたい」という言葉が廃れたあとに「死にたいクラブ」と同級生たちに侮蔑的に名づけられたのだった。それがきっかけで、しばらくしてわたしたちはお互いに疎遠になってしまったのだから、エリの真似をすること、これこそ深い墓穴だった。

     いや、わたしは嘘を言っている。

     エリはそのあとほんとうに死んでしまった、というようなことはなかったけれど、彼女も、思春期も、県大会も、高校受験も、予備校のあとのファミレスも、サークルクラッシャーも、薬の名前を覚えていくことも、日焼けした同期に言い寄られることも、転職も、離職も、タワーマンションも、アダルトチルドレンの傾向を検索することも、愛犬ブログをSNSのトップに載せてそのアカウントで子育てをしている同年代の人間のうかつな発言をあげつらうことも、経たのだろう。

     「死にたい」は廃れたがそれは流行らなくなったというだけで、大人たちの耳に入らない程度には使われていた。「墓穴」もまだまだ使われていた。「けつ」という音を面白がって、誰かがしくじったりすると「ぼけつ!」と叫んでその子のお尻をパンっと叩くことが男の子のあいだで流行った。お尻を叩くときは、腕をしならせて鞭のように、短く強くパンっと叩くことが大事だった。けっして、「もみもみ」したり「なでなで」したりしてはいけない。「もみもみ」や「なでなで」が発生すると、その噂が異性の耳にも届くほど、かつ早く、広まった。その行為者は、学年のなかでガキ大将的な、カーストの高い子が多かった、だから噂は噂で終わる、カーストの低い者に噂が立つとひたすら気持ち悪がられた。ともあれ、いかに小気味よい音を叩いて出せるのかが大事だった。男の子のおふざけのあいだでは、「いい音が出るケツランキング」というものがあったらしい。

     誰かがしくじると「墓穴!」と言ってお尻を叩く。しくじった本人も「墓穴!」と叫ぶ、どちらがその言葉を速く口に出せるか、そういうやり取りもあった。ケツの奪い合い。ふたつのケツが互いの声で通い合う。幸せな少年時代。しかしこういうときもある。男が、しくじったときに「死にたい~」と、すでに廃れたが忘れ去られたわけではない言葉を吐く。「墓穴!」と言われてひときわ強い力でお尻がぶたれる。なぜか。「死にたい」はすっかり「女の言葉」になっていたからだ。女の言葉を口にすることは、文字通りに墓穴を掘ることだ。それはかつて健やかで便利な言葉だったが同時に、きっと、呪いだった、もしくは「死にたいクラブ」の魔女が造った毒薬のようになっていた。

    (つづく)

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