檸檬の瓶、赤く染まった煉瓦塀、ボートの揺れ。
触れずにいた感情が、少しずつ形を変えながら肌に沁みていく。
「沈黙」を通して語られる、小さな香りの記憶の断片集。
煉瓦塀の隙間から漂う、焼けた皮膚と血の匂い。
鼻先を過ぎる異臭に抗うように、布に染み込んだ檸檬の記憶を呼び起こす。
誰かの記憶か、あるいは記憶のなかに残された誰か。
何を確かめに来たのかもわからないまま、ただ匂いだけが過去へと連れ戻す。
『檸檬羊毛』は、そんな一つの場面から静かに始まる。
だがそれは、ただの序章にすぎない。
語りはやがて移ろう。
親子、祖母と孫、従兄妹、見知らぬ女と少女──
その関係性は、時に繋がり、時にすれ違いながら、
記憶と沈黙のなかで互いの輪郭を形づくっていく。
匂い、手触り、夏の光と翳り、
そして長いあいだ言葉にされずに沈殿してきた思い。
それぞれの登場人物が抱える静かな裂け目が、
断片的に、しかし確かに編まれていく。
未完成のまま放置された小さな布袋、薔薇の香り、
斑に染まったハンカチ、曇ったガラス越しのジャズの旋律。
そうした些細なものたちが、無言のまま語り手となる。
声を荒げる者はいない。
ただ、言葉にできないまま誰かの胸に沈んでいった思いが、
ふとした手の動きや、しまわれたままの物の存在を通して滲み出す。
そのかすかな浸透が、全体に目に見えない織目を与えていく。
これは、ひとりの物語ではない。
けれど、どの語りも、どこかで誰かひとりの深い孤独と、密かに通じている。
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