だれかを好きになることと、
自分という存在がどうしようもなく曖昧であることは、
ときどきよく似ている。
『ラベンダーフォビア』は、そんな曖昧さのなかで、
いちばんやさしい温度の場所を探していく小説。
写真集をきっかけに、ふと始まったカフェでの会話。
シナモンミルクティーの香り、ページをめくる音、誰かの目の奥にある空洞。
出会いは、日常のふりをして近づいてくる。
それはたぶん運命とか偶然とかじゃなくて、
ちょっとだけ開いたまぶたみたいなもの。
閉じてしまえば、何も起きなかったことになる。
でも開いたままだと、そこに何かが落ちてくるかもしれない。
この小説には、たくさんの「言いかけの言葉」がある。
伝えたいのに伝えきれない、言ったあとにすぐ後悔する、
もしくはそもそも口に出せなかったこと。
それでも人は言葉を使って、距離を測る。
好きと嫌いのあいだ、自己と他者のあいだ、過去と未来のあいだを行ったり来たりしながら。
舞台が夜のクラブ「シャクティ」へと移ると、すべてがピンクに染まりはじめる。
ピンク色の海。ピンク色のライト。ピンク色の飲みもの──
それは現実のような夢であり、夢のふりをした現実でもある。
浮かぶ椅子、透けるスカート、誰かの笑い声、誰かの沈黙。
そこにいる人たちはみんな、何かになろうとしているか、何者でもなくいようとしているか、そのどちらかだ。
この物語の色は、感情そのものとして機能する。
優しさも、切なさも、拒絶も、
すべてがピンクの海に溶けて、波のように押し寄せては引いていく。
それに身をまかせたとき、人は自由になるのか、
あるいはもっと深く沈んでしまうのか。
主人公は、世界との距離感にずっと戸惑っている。
会話のリズム、視線の意味、沈黙の厚み。
なにかになりたいわけでも、何者かに選ばれたいわけでもない。
ただ、自分という形があまりにもはっきりしすぎてしまうのが、ちょっと怖い。
それでもほんの少しだけ、だれかに触れたくなる。
その揺れの中に、この物語の中心がある。
登場人物たちは、みんなやさしい。だけど不完全で、すこしずるい。
その中途半端さが、人間っぽくて、でもどこか人間じゃないようでもあって、
まるでウールのセーターのなかで呼吸してる猫のように、ふわっとした孤独を抱えている。
たぶん、そこがこの作品のやさしさであり、残酷さでもある。
『ラベンダーフォビア』というタイトルには、ラベンダーという静かな色と、フォビア(恐れ)というざらっとした感情がくっついている。
その距離感のまま、物語も進んでいく。
やさしいものは、いつもどこかで痛みを抱えている。
そして痛みは、ときどきやさしさにすり替わる。
そのあわいを、読むというより、沈むように体験する小説。
ここにあるのは、恋と呼ばれるものの輪郭ではなく、
その周辺にあるたくさんの名づけられない感情たち。
言葉にしてしまえば壊れてしまうものを、あえて言葉で包み込もうとする試み。
やさしくて不器用で、それでもどこまでも真剣な、ひとつの物語のかたち。
これは、読む人の中に、じわじわと溶けていく。
たとえば、誰かのことをふと思い出したときの匂いみたいに。
季節の変わり目にだけ浮かぶ、記憶の片鱗みたいに。
説明も分類もできないけれど、確かにそこにあったなにかの気配。
たぶん、恋愛小説だと言い切ってしまえば、すこし楽になる。
でも、それだけでは足りない。
沈黙の中にこそ、ほんとうの言葉があるのかもしれないと、
この物語は、ずっと耳を澄ませている。
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