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夕炎の人

  • 第二展示場 Eホール | き-13 (小説|ファンタジー・幻想文学)
  • せきえんのひと
  • ななつほしなみ
  • 書籍|文庫判(A6)
  • 352ページ
  • 800円
  • 2023/11/11(土)発行
  • 〈あらすじ〉
    領主の屋敷の庭師であるセッケムは、最近あることに悩んでいる。父親が「声の男」との結婚を強要してくるのだ。一人前の庭師になれないことは分かっていても、庭仕事をしながら今の家族と生きていきたい。そんな風に考えるセッケムにとって、父の行動は不安の種だった。
    いずれ具体的な結婚相手が現われたら、自分は家を出てどこか遠くへ逃げなくてはならないのだろうか。そんな心配を抱えながら屋敷の庭で働いていたある日、ひょんなことから領主の客人である珍しい商人と知り合いになって……? 複数言語をめぐる女性達のファンタジー。

    こちらで第一章1の全文を掲載しています。このページのサンプルと違い、ルビもタグ付けになっていて読みやすいかと思います、宜しければご覧下さい。

    〈Trigger warning 事前警告〉
    この小説には以下の表現が含まれます
    家庭内暴力/強制的な薬物の投与/妊娠中の人物と胎児への暴力
    女性差別/ろう者や手話、ろう文化に対する差別/身分差別/結婚の強要
    (以下のサンプルに全てが含まれている訳ではありません)


    〈サンプル〉
     セッケムが樫(かし)の木立に足を踏み入れると、ぱちん、ぱちん、と鋏(はさみ)を使う音が響いてきた。そこら中の木の根元に、剪定を終えた後の枝やら葉っぱやらが落ちていて、足の踏み場もない。足を取られぬよう気をつけながら、彼女は木立の奧へと進んでゆく。次第に鋏の音が大きくなる。ゆっくりと立ち止まると、空を覆わんばかりに広がる枝の網へ目をやった。音の大きさから、父がすぐ近くにいると思ったからだ。
    「へあっぐ」
     出し抜けに、声とも音ともつかぬものが聞こえた。探し人のくしゃみだと即座に理解して、セッケムは周囲を見渡す。この辺りの枝のどこかに父がいる筈だった。幹に梯(はしご)や脚立が置かれていないか、きょろきょろと周囲を確認する。
     ややあって、再びぱちん、と鋏の音が響いた。一抱えほどもある立派な枝が頭上から落下して、セッケムの右前方に落ちかかる。同時に頭上の緑の中で、もぞもぞと動く人影があった。どうやら木の股に腰掛けて枝を切り落としているところのようだ。
     セッケムは父が腰の物入れに鋏をしまうのを見てから、軽く枝の付け根を揺すった。彼はそれでようやく娘の存在に気付いたようだった。するすると枝を伝って幹の方へ戻ってくる。地面にほど近い木股に腰掛けると、父はセッケムににこりと笑いかけた。
    〈終わったのか?〉
     姿勢を安定させた後、禿頭の男は問うた。セッケムは頷くと、父から両手と顔が良く見えるよう、立っている場所を少しばかりずらす。
    〈西側は終わったよ。ラシリハの庭はこれから行くつもり〉
     父は穏やかに点頭すると、ふと視線を少しばかり遠くの方へ向けて、片手を挙げた。振り返れば、脚立を担ぎながら次兄がこちらへやって来るのが見える。
    〈お前も終わったか?〉
     脚立を適当な幹に立て掛けるのを眺めながら父がそう訊いた。次兄は人差し指同士を突き合わせてそれに答える。肯定を意味する手語だった。父はそれを見ると、セッケムの方を見て軽く笑う。
    〈なら、お前はラシリハの庭をやりに行きなさい。それで今日は終わりだよ〉
    〈午後は? まだ色々とやることがあるでしょう? ここの樫(ガンヂー)だって……〉
     だが、父は柔和な表情のままにセッケムの言葉を制した。右手で打ち払う仕草をされる。却下、の意味だった。
    〈家に帰りなさい。お前は緑の者じゃないんだから、そんなに頑張らなくて良い〉
     セッケムはその言葉に反論しかけたが、父の好々爺然とした表情に何と返せば良いのか分からなくて、結局手を下ろした。
    〈ラシリハの庭だけは、申し訳ないが頼んだよ。あそこは男が入れなくなっちまったからな〉
     父は両手でそう伝えると、再び枝先の方へと登ってゆく。猿(ましら)のように素早い動きは、彼の庭師としての円熟した技倆(ぎりょう)を物語っていた。
     ――あんな風になれたらなあ。
     鋏の音を聞きながらセッケムは俯く。足許に枝が落ちてきた。日焼けした足に蟻が一匹、まるで探検でもするかのように這っている。その動きを見つめていると、次兄に肩を叩かれた。
    〈行ってこいよ。ラシリハの庭の様子、後で教えてくれ〉
     兄の手がそんな風に動いた。逆光で分かりにくかったけれど、何となく複雑そうな表情をしている。こちらを案じるような、心配してくれているような顔だった。そのことに僅かばかり慰められて、セッケムは人差し指同士を突き合わせる。深く息を吸うと、木立の北の方へ歩き出した。

     セッケムとその父、そして二番目の兄の三人は、二年ほど前からこの屋敷に庭師として仕えていた。広大な庭を有するこの屋敷は、ここら一帯を治める領主の住まいである。聞くところによると、シンハッ河(がわ)の中流域にある他のどの領主の住まいよりも立派だという。その噂も満更嘘ではあるまい、というのがセッケムとその家族の実感だった。敷地は栗(ラグァ)と松(キヤン)と樫(ガンヂー)とでぐるりと囲まれ、更にその外側には白(はく)堊(あ)の石垣が巡らされている。敷地の中にはいくつもの木立や園池、更には人工の丘や噴水まであって、初めて見た時には目を回したものだ。こんな豪勢な屋敷が近隣に幾つもあるとは思えなかった。
     セッケムはそのだだっ広い庭の西側を小走りに抜けながら、先ほどの父の手の動きを反芻する。
     ――お前は緑の者じゃないんだから。
     父がセッケムをのけ者扱いするのは、これが初めてではない。半年前にセッケムが十五歳で成人して以降、ことある毎に「お前は緑の者ではない」と言うようになった。
     ――緑の者。
     走りながら、今一度その言葉を手で呟いてみる。十指を立て、上へ突き上げるように動かした。それが「緑」を表す手語である。「緑」は他にも、草木や薬を意味する。つまり緑の者は草木の牧(まき)人(びと)や、薬の番人のことだ。庭師もしくは薬師となって、その技術と職能を継承する者を指す。
     セッケムの父は庭師で、亡き母は薬師だった。血筋の点で言えば、セッケムは緑の者の一員であってもおかしくない。能力だって申し分なかった。正式な鋏こそ持たせてもらえないけれど、難しい梣(シムシー)の枝の矯正だってできるし、涸れかけの井戸に水を引き込むことだってできる。
     ――でも、私は緑じゃない。完全に緑って訳にはいかない。
     灌木の茂みを掻き分けながら進んでいると、水の流れるさらさらという音が響いてきた。園池に流れ込む遣り水の一つだろう。近づいて落ち葉が溜まっていないか確認してから、セッケムは今一度北へ向かって歩を進める。小枝を踏んだところで、ぱきりと乾いた音が耳を突いた。
     父のくしゃみが耳の奥によみがえる。ぱちん、と響く鋏の音も。
     ――私には、音が聞こえる。

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