魔術とは人間が魔法を模倣した技術である。
澪千秋は狐の神使・トパーズと共に暮らしている。あるとき、千秋の目の前に魔術師の少女が現れて──。
◆試し読み
──どうして俺は魔法使いになりたかったんだろうか。
誰にも話していないから、答えは己の中にしかない。けれども、自分が魔法使いを志したときのことを朧げにしか思い出せないから、答えは闇の中だ。
千秋は記憶の層をひとつずつ掘り起こしながら、足だけは真っ直ぐに前へと進める。
今日が昨日に変わる間際、真夜中だ。マンションの廊下には彼一人だけの足音が響く。
ヒューっと音がして春の冷たい風が千秋の横を通り抜けた。上着を着てくるべきだったか、と千秋は独り言つ。調合の邪魔だから、とまくり上げていた袖を伸ばしボタンを留める。
窓の外には、雲ひとつない夜空が見える。晴れ、という言葉からは太陽が輝く昼間を想像する人が多いだろう。けれども、遮るもののない濃紺の上で星々と月が燦然と光る夜にこそ、相応しい言葉だと千秋は思っている。
屋上へ繋がる階段を上がり、扉を開く。マンションの屋上に作った庭では、彼の弟子である薄桃色の髪の少女が春の月夜に毎年行っている儀式の準備を進めていた。
いつも食事をする木製のテーブルの上には、消毒した雨水と満作の花、それにビーカーがいくつか。
それらを準備し終えた彼女は手元のノートに目を落としていた。
この国ではなかなかお目にかかれない薄桃色の髪の少女は名をヴィニーシャという。出会ったばかりのころ、日本人の祖母が「桜」を意味するその名をつけてくれたのだと話していたのを千秋はふと思い出した。
「先生。準備できましたよ」
ヴィーシニャはアイスグレーの瞳をこちらに向けた。千秋は彼女にお礼を言う。
「トパーズは?」
友人について問い掛ければ、ヴィーシニャは遠くの山の方を見ながら
「今日は良い日本酒が手に入ったから隣街の社で一杯やってくる、と先程出かけて行きました」
なるほど、と千秋も山の方を見る。
神の使いである彼らは皆、酒と月が好きだ。中でも今日のような晴れた春の三日月は格別である。
春の三日月には水がたまる。空の高いところで下側に弧を描いた月のことを、昔の人はお椀に喩えた。
そのせいもあってか、春の三日月の光は水との親和性が高い。月光に十分に晒された水は品質の高い魔力を含んだ薬の元になるし、神使が月を眺めながら美味い酒を飲めば、上質な魔力を潤沢に得ることができる。
冬が明けたとはいえまだ夜はまだ寒い。酔い潰れた友人が寝冷えしないように願いながら、千秋はヴィーシニャが用意してくれた水溶紙にペンを滑らせる。
今日の儀式の要。月の満ち欠けと季節の移り変わり、天からの恵みである雨と魔力。それらを表した魔法陣を描いていく。
三日月は新月から満月へと移り変わる過程の姿。寒く厳しい冬から生命が息づき始める春へと季節が移る。天から降った水が地上を通って海に流れ、蒸発して天に還っていく。すべての魔力は、その循環の中に存在する。
人間はその過程の一部となり、自然から魔力を拝借する。
魔法陣は、いわば月が降らす魔力を水に蓄えるためのスイッチだ。儀式を始める、その最後の一ピース。世界の循環を感じながら、千秋は一筆ずつを丁寧に描いていく。
血が巡る。頬を風が撫でていく。遠くで電車が線路を通過する音がする。
魔法陣を描くとき、千秋は自分が世界に溶けていくような感覚に陥る。骨も肉も空気のように軽く透明になり、世界に混ざり合っていく。幸福な心地だ。それを知ってしまったから、彼は才もないこの職業を続けている。
最後に魔法陣を円で囲えば、完成だ。
ふうっと大きく息を吐く。顔を上げると、笑みを抑えきれない様子のヴィーシニャと目があった。
好奇心に輝く瞳は、出会ったばかりの頃よりもだいぶ子どもらしくなった。年相応の表情を見て、千秋は自分の中に親心が芽生えていることに気づいた。
ヴィーシニャは先日の大雨のときに溜めておいた雨水をビーカーに移し、満作の黄色い花弁をちぎって水面に浮かべた。
千秋はその上に魔法陣を書いた水溶紙を破って落とした。紙片は瞬く間に水を吸って、海月の偽物に化けていく。
これで儀式の準備は終わりだ。後はビーカーの中身にたっぷり月光を吸収させるだけ。
千秋は椅子に腰を下ろした。力みすぎた手の筋肉をほぐしたくて、閉じたり開いたりを繰り返す。
ヴィーシニャは対面の椅子に座り、ノートに何か書き付けている。彼女がこの儀式に参加するのも今回で四回目なのだから、やり方をメモしているのではないだろう。
──何か新しい魔術のアイディアが生まれたのかもしれない。あとで聞いてみよう。
そんなことを考えていると、ひと段落ついたヴィーシニャが顔をあげて大きくあくびをした。
「今朝も早かったんだし、寝ていいよ。あとは俺がやっておくから」
「いや……、起きてたいです」
目を擦りながら、ヴィーシニャは首を横に振る。
千秋は短く息を吐いて、椅子から立ち上がった。そのまま自宅のペントハウスに向かい、お湯を沸かし、コーヒーを淹れる。ついでに大判のストールを手に取り、庭に戻る。
ヴィーシニャは立ち上がって月を見上げていた。
千秋が手渡したストールを、ヴィニーシャはありがとうと言いながら受け取り、肩から羽織った。
「きれいですねえ、先生」
「ああ」
座ってコーヒーを一口含めば、苦味と香ばしい香りに目が覚める。猫舌のヴィーシニャはふうふうと黒い水面に息を吹きかけている。
テーブルの上に並んだビーカーに満たされた水の中では、ラメのようなキラキラとした薄い光が瞬いては消えるのを繰り返していた。月の魔力が目に見える僅かな時間。この美しさを眺められるのもまた、千秋が魔法や魔術に触れ続ける理由である。
ヴィーシニャもまた、空からテーブルへと視線を移して幻想的な煌めきを見つめていた。
魔法。それは神や神の遣い、精霊が魔力というエネルギーを用いて実現する奇跡である。
人間に魔法は使えない。しかし、奇跡の行使を諦めきれなかった誰かが自らの生命力を魔力に変換する術を生み出した。
以来、人間はその技術を以て魔法を模倣するようになった。それは「魔術」と呼ばれ、魔法とは明確に区別されるものである。魔術の行使には才能が必要だ。それを持ち魔術を使うことのできる、ごく限られた人間のことを「魔術師」と呼ぶ。
魔術もまた、選ばれた人間にしか扱えない奇跡なのだ。
この物語は、魔法使いになりたかった少女と魔術師になれなかった男の記録である。
魔法によって無かったことにされた、失われし記憶の話である。