陽光を阻む分厚い灰雲の隙間から、ふわりと漂いだした白。和毛(にこげ)にも似た雪のひとひらを見上げ、五郎爺さんはにっこり笑った。五十の坂どころか、本卦還りを悠然と過ぎた年頃の皺が相応に刻まれていても、まだしっかり髷も結っており、中背の腰も未だ曲がらずしゃんとしている。日焼けした額にまたひとひら落ちてきた雪に、五郎爺さんの目尻に鴉の足跡がたのしげにくっきり浮かぶ。
「そろそろ、山から来る頃合いか」
『茶や』と染め抜かれた、褪せた柿色の幟が山おろしにはためく。それにつられて、五郎爺さんは行き交う人が踏みしめた峠道の先に視線を向けた。
『木蓮に寄す』
「趙成羽(ちょうせいう)、とかいったか──話すことなど何もないと、何遍も言うておろうが」
弥生も中半を過ぎた頃、思いがけぬ雪が地を白く染めた。すべての音を吸い込む静寂に相応しく、星明かりなき灰黒がしんと添う。そんな天と地の狭間に、ほのあかるさを秘めたしろい木蓮が、今を盛りと咲き誇っていた。刻はずれの雪なぞに屈したりせぬ、そう言わんばかりの花影に、李嗣薫(りしくん)は飾り意匠の名残すらない窓の桟越しに視線を投げかけた。
「そう仰られましても、今夜という今夜はぜひ、謎かけの答えをお伺いしたく」
いささか褪せた青い着物をまとった趙成羽は黒目がちな目を大きく見開き、干支を五周りは過ぎただろう眼前の男に深々と頭を下げる。
「李先生の謎かけは、紅灯の巷のみならず官界でも有名ですから──而立を前に進士及第、前途洋々たる将来を約されたも同然の紅顔の貴公子であった李嗣薫先生が、何故にその道を歩まず、斯様に辺鄙な場所に庵を結んだのか、と」
枝の影はくらぐらと重なり合い、十三夜の月明かりを遮る。未成の霜柱と枯草の踏みしだかれる音が交差するなか、暗い森を駆けゆく、ハンナの若く荒い息づかいが沈んでいく。そばかすの散った頬は紅く火照り、桜桃色の唇はせわしなく震えていた。
(どうして……どうして、アレクセイは……)
耳の底でこだまする、幼馴染みが自分の名を呼ぶ声。農作業のさなかに呼びかけてくる、いつもの声とは違って──熱く、切実な。
(あんな声でわたしの名前を呼んで、あんな歌を──……!)
十六歳とは思えぬほど小柄でほっそりした身体のなかでも、なよやかでありながらかたくなな肩胛骨を、二本の茶色いお下げ髪が打つ。それを、自分を急き立てる鞭のように感じながら、ハンナは凍った雪が根本を覆う木々の間を、夜闇の森をただひたすらに走り続けた。
数刻前のできごとを思い返しながら。
こちらのブースもいかがですか? (β)
エリーツ RIKKA ZINE 書肆侃侃房 胎動LABEL SCI-FIRE 斜線堂有紀 ナナロク社 奇書が読みたいアライさん ぬかるみ派 翻訳ペンギン