一歩踏みだす。足が黒い毛のかたまりに触れた。ふわりとした柔らかい毛のひと触れに、このうえない温かみをおぼえる。薄暗がりにも輝く愛らしい瞳で李娘を見あげている。むく犬の黒耳。目の前の大事も忘れて、李娘は軽くほほえむ。頼りはこの細身の剣とおまえだけだ。胸中でつぶやく。
いとしいむく犬を抱きあげてやりたい衝動に駆られるが抑える。思いが伝わったのか、まっ黒な犬は体を李娘にすり寄せてくる。触れてくる毛の柔らかさとぬくもりが心地よくて、心が安らいだ。だが、視線をさだめて、ふたたび洞口に注意を向ける。ときは満ちた。(「李娘」より)
見よ! 佳人が覚悟をもって戦う姿はこんなにも美しい──
李娘(りじょう)、柴郡主(さいぐんしゅ)、穆桂英(ぼくけいえい)、聶隠娘(じょういんじょう)。中国の古典、民間伝承のスーパーヒロイン4名4短編。戦う女子。(装画:松下利亜)