私はその怪しい美しさに一時恐ろしさも忘れ、もっと近くで見てみたいと強く感じました。そしてあろうことか、今の今まで怖くて堪らなかった森の中へと一歩、また一歩と踏み込んで行きました。そうして近付いてみると、それが黒く朽ちた倒木の幹と思しき塊の上に咲いているのがわかりました。普通ならさるのこしかけの一つも付いていそうなものですが、不思議と一株の花だけが芽吹いている様は、私に何か神聖な念を起こさせるに足る光景でありました。嗚呼、今となっては怖気の走るばかりで御座います!
(「或る男の山里にて遭遇したる怪異のこと―某インタヴュワの記録より―」唖兎 享一)
思い切って手のことを尋ねると、「ああ、これ。腹が減ったから、食ったんだよ」とあっけなく答える。「また、生えてくるからいいんだ」
やはりサキは――。たとえ私たちが異なる種であったとしても、私はこの時間が永遠に続くと信じて疑わなかった。あの静けさの中、二人で、ごくごく薄い、唇の皮膚ほどの薄さの水の膜を互いのあいだに感じながら、時間を重ねてゆけるのだと、信じていたのです。
(「ネムノタキツボ」孤伏澤つたゐ)
若者が首をかしげてしばらく、どうやらそれは、だれだお前は、というようなことを自分に発しているのがわかるのでした。こちらからもそちらはだれなのかと返すも、人影は名乗りにはこたえませんでしたが、話かけ続けるのでした。
こんなところで立ち止まって退屈でしょう。どうぞ一つ私と遊戯でもいたしましょう。なに簡単な問答です。私の顔を当ててください。霧が晴れるまであなたは顔を想像するのです、と言っており、なんとも変なことを言い出すものだと若者は思いました。しかし顔が見えないとはいえお互いこの峠でこんな霧に包まれてしまった同士、ほかにすることもなく自分はその提案に乗ることにしました。
(「のっぺらぼうの怪」渦保)
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