大阪府茨木市、片桐町の古い住宅街。
安田優子は、阪急本通り商店街のコロッケの匂いや、安威川から吹く風、夕暮れに染まる街並みの中で育った、ごく普通の女の子だった。
幼い頃は、商店街の温かな声や家族の穏やかな食卓に包まれ、何気ない日常を当たり前のものとして受け止めていた。しかし中学時代、吹奏楽部で自分の音が周囲から浮いているように感じたことをきっかけに、優子は自分の声と心にそっと鍵をかけてしまう。
そんな優子の人生を変えたのは、高校で出会った放送部だった。
大勢へ向けて声を張り上げるのではなく、たった一人の誰かの耳元へ、温かいお茶を淹れるように言葉を置くこと。木下先輩から教わったその考え方は、優子の中に消えない小さな灯火をともす。
放送室のマイク、昼休みの校内放送、体育祭での一言、そして朗読の舞台。自分の声を恐れていた少女は、少しずつ「言葉には誰かを救う力がある」と信じられるようになっていく。
やがて短大でコミュニケーションを学んだ優子は、通販会社ソラシエの出品者対応部門へ進む。そこは、画面の向こう側にいる見えない誰かの不安や怒り、孤独と向き合う場所だった。
規約だけでは救えない心。正しい言葉だけでは届かない痛み。優子は、茨木で育まれた記憶と、自分自身が積み重ねてきた声の力で、一人ひとりの人生の一ページに触れていく。
そして、その声と言葉の記憶は、やがて人間だけのものではなくなる。
人の心に寄り添うAIとは何か。記憶はどこへ残るのか。伝えられなかった言葉は、時を超えて誰かに届くのか。
阪急本通り商店街、元茨木川緑地、おにクル、安威川、彩都――茨木の風景と人々の記憶を背景に、誰かを想う気持ちと、受け継がれていく声の行方を描いた、静かで深い長編小説。