そこはかとなく猫っぽい探偵×ホラー小説家の異界探索ミステリー。20年前に起きた落下事故の調査に乗り出した探偵アリス。訪れた屋敷で探偵は不可解な現象に遭遇する。
【本文サンプル】
『9月12日 12時05分
ペン先を紙に軽く当てて自分の名前を書こうとした瞬間、手が止まった。 そこで初めて、アリスは自分の名前が思い出せない事に気付いた。 はて、記憶喪失にでもなったかと己のプロフィールを掘り起こすサルベージする。
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名前 ?(音はおそらく『アリス』)
年齢 27
職業 探偵
国籍 日本
詳細 五年前から神楽坂で小さな探偵事務所を営む。猫探しに関しては世界一の探偵らしい。昨年の冬に初めて助手を一人雇う。それに伴い、食生活に大幅な改善があった。
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そう、アリスは探偵だ。『小梅屋敷』と呼ばれるこの邸宅に来たのは、依頼を受けたからだった。
顔を上げれば、依頼人である小梅次郎がいた。50か60に差し掛かる手前、壮年を少し過ぎた頃合いの男だ。ふくよかな腹を仕立てのいいスーツの中に綺麗に収めているせいか、どこかの財閥の会長であるかのように見える。
仕事は確か、とある人気番組のヘッドディレクターと言っていたので、職業系統としては当たらずとも遠からずか。丸い目に柔和な顔立ち。眉間に刻まれたシワだけが厳めしげだ。物腰やわらかに見えて、何かの拍子に態度を豹変させる男だろう。家族や部下は少しだけ苦労しているかもしれない。
幸いなことに、小梅はアリスの様子に気付くことなくなにやら時計を頻りに気にしていた。時間は12時少し過ぎ。カチカチと規則的に秒針が進んでいる。 屋敷に来るきっかけとなった手紙の内容、つまり今回の依頼についてもしっかり思い出せた。この屋敷で二十年前に起きたとある事故の再調査だ。小梅屋敷の家長が亡くなる原因となった事故に、人為的な工作がなかったか調べて欲しい、と言う不思議な依頼だった。
いつもの猫探しとは勝手が違うので、ひとまず助手を置いて先にアリスだけで偵察に来たのだ。
必要な来歴はこんなところだろうか。記憶の方には問題がないようで、安堵するアリス。
しかし己の名前だけがやっぱりうまく認識できなかった。思い浮かぶのは音だけで、どうしても文字の形が思い出せない。 そもそも『アリス』と言う音も正しいのかどうか。成人男性を名付けるにはあまりにも可愛らしい名前に、アリス――少なくとも今は自分をこう呼ぶしかない――は眉をひそめた。 仕方なしにカタカナで名前を記入する。『アリス』。『アリス探偵事務所』。カタカナにすると尚更、女性じみている。続く電話番号や事務所の住所はスラスラと書けるのに、名前だけが記憶から零れ落ちている状態が不思議だった。
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