ナルミ。ナルミはどうして、俺にやさしくしてくれるの
気づけばナルミの家にいた。さあ、どうしてだろうね。きみがかわいいからかな
<本文サンプル>
まるで飼われている。
いっそのこと、首輪でもつけてくれれば開き直れるのに。そう思いながらも口にはできず、羽月は玄関先にぼんやりと立ち、きょうも出社していく家主を見送るのだった。
「じゃあ、行ってくる。昼食は冷蔵庫のなか。電子レンジで二分半、あたためて食べてね。おやつも冷蔵庫のなかだよ。それから……」
「わかってる、ナルミ。遅刻するよ」
「……そうだね。じゃあさいごに」
その長身を屈めて、鳴海は羽月の唇をついばむように、いちどだけキスした。
鳴海はキスをするときだって完璧で、ぜったいに鼻と鼻がぶつからないようにくちづけてくる。さきほど歯を磨いたばかりだからだろうか、すっとミントの香りがした。
それでもすこしずれた眼鏡を正しい位置にもどしながら、「そうだ」とつけくわえる。
「外は危険がいっぱいだから、出てはいけないよ」
さいごに、って言ったくせに。それでも羽月は頷きながら、ドアを開けて出ていく男に手を振った。きょうも皺ひとつないスーツで、ぴかぴかに磨かれた靴で、美しく櫛のとおったさらさらの髪で。
ドアが閉まったあとで、ゆっくり鍵を閉める。かたや自分は、と玄関の壁に貼り付けられている鏡に全身を映すと、上下ともだるだるになったグレーのスエット、まだ春先だというのに裸足、ぼさぼさの茶髪。
なにが楽しくて、あの男は自分など囲っているのだろう。
しかし、彼に見放されてしまうと、どこにも行き場がなくなってしまうのもまた事実だ。
羽月には帰る場所がない。わからないのだ。
羽月には過去の記憶がない。鳴海に拾われた日、それより前の記憶が、すべてうしなわれている。
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