目の前の男の「好き」に、今は応えなければならないのに。
(裏表紙より)性的描写があります。
イラスト:ichigo様
<本文サンプル>
「ミイ。おいで」
ベッドから上半身を出しながら、男が手招きしていた。
ひどくととのった顔。やや細いが均整のとれた体つき。うわついた茶髪。両耳でいくつも光るピアス。
ふらふらと吸い寄せられるように自分もベッドに身をすべりこませれば、猫でも扱うかのように喉元を指先でくすぐられた。
「いい子だね」
喉元の指が、今度は髪を撫でる。慈しむようにやさしくあろうとするそのしぐさはもちろん、潜りこんだベッドのあたたかさがとても心地よい。
ああ、俺はこいつといつまで一緒にいられるんだろう。そんな不安と、いつまでも一緒にいられるような期待が入り交じって、胸で渦巻く。しかしそれも、いま身体をつつんでいる温度に溶かされていき、どうでもよくなる。
ミイ、好き。好きだよ。愛してる。頷く暇もあたえないままなんどもささやかれて、ただ視線だけを泳がせた。俺も好き。言えずにおしだまっていると、とろりと意識が睡魔に溶かされた。
「ミイ、眠いの? 今夜も抱いて寝てあげる。おやすみ」
薄いカットソーに包まれた腕に、そして胸に抱きこまれる。彼の体温が燃えるようだ。その熱に、ひたいを押しつけるようにしながら眠る。
ずっとこのままでいられたらいいのに。しかし、ひたいが、肩が、背中が、突然すっと冷たくなって、その寒さに目を開けた。
自分を抱いていたはずの男は、自分に背を向け、そちらでちがうだれかを抱いていた。
長い髪はおそらくは女性。知らない顔。知らない声で、彼女は問う。
「だあれ、そのひと」
そっちこそだれ。反論したいのに、声が出ない。呼吸に声が乗らない。体すら起こすことができずに、男の背中をただ見ていた。男は言った。
「同僚だよ。ただの」
がん、と後頭部をハンマーで殴られたようなショックが襲う。戸惑っていると、女性の腕が男の首に巻きついた。
「ミイ、そういうことだから。じゃあね」
次の瞬間にはふたりはベッドから消え、ひとりぼっちになった上掛けのなかで、ただただ襲ってくる喪失感を受け止めきれずにいた。すこしとなりに手を伸ばせば、そこにはもう彼のぬくもりすら残っていない。
どうして。身じろぎひとつできずにいると、玄関のドアの外からキャリーバッグを転がす音が聞こえてくる。音はやがて遠ざかり、消えた。
そのときようやく、声が出るようになった。声が出たら、涙が出るようになった。何度も彼の名前を呼んだ。泣きながら。
この部屋で同じ時間をともに過ごした、愛しい男の名前を。
「ヤヤ……、ヤヤ……っ」
しかし、いくら呼んでも男が帰ってくることはなかった。悲しみがつのり、怒りとやりきれなさがあとからわいてきた。
「ヤヤ……」
感情がひときわ高まって、深い呼吸を何度もついたとき、狭くなっている気管がひゅうと笛のように鳴る。その音に驚いて、いつも目が覚めた。
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