知らず知らずのうちに人を傷付けてしまったり、規則に違反してしまったりすることが間々あるが、その時私たちに悪気はない。悪気がないからこそ知らず知らずのうちに罪を犯してしまうのであるが、悪気があって罪を犯す場合と、悪気がなく罪を犯してしまった場合とでは、一般的には後者の方が人に悪い印象を与えることが少ないように思われる。子どもは無邪気だと言われるが、その無邪気さが時に思わぬ形で残酷さへと転じることがあったとしてもそれらが大目に見られることが多いのは、彼らに悪気がないことを私たちが感じ取るからである。悪気の有無が、罪である行為に対して私たちが持つ印象の良し悪しを左右することが多いように思われる。
しかしその一方で、悪気なく罪を犯すことがこの上なく恐ろしい事態を意味してしまう場合もある。それは罪を犯した者が、自らの犯した罪の影響が現実の上に具体的に作用してもなお、自分が罪を犯したことを全く自覚しない場合である。罪の自覚がないかぎり反省は起こらない。反省が起こらないために、その者はまた知らず知らずのうちに同じ罪を繰り返す。
悪気のなさが罪の自覚のなさと結び付く時、無邪気さはかえって冷たさとなる。悪気のなさが罪深いものとなるのは、悪気のなさが、自分が他者に与えてしまった痛みに対する感受性の欠如という形で表現される、他者の心への関心のなさを意味する場合にほかならない。
他者への関心の欠如、ではなく、他者の心への関心の欠如。これが罪悪としての無関心であり、仏教はこのような無知のことをこそ無明と呼んだのではなかったか。
無明、それは他者からの導きを受けないままにあてどもなく彷徨いゆく中で、ありとあらゆる自分勝手が悪気のないままひとりでに起こる源である。そしてまたそれは私から親切さを奪う悪魔である。他者の心への関心を私が失う時、私は悪魔に魂を売り、悪魔に操られながら、悪気なく人を傷付け続ける。こちらのブースもいかがですか? (β)
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