負傷した海里の治療のため、ユニオンは一度深海都市への帰還を決める。
共に向かったマイキは機械知性体の住む都市を目の当たりにしてはしゃぐ。
だが、故郷への帰還は、安息だけをもたらすものではなかった。
2016年10月全8巻完結。
「妖精の歌」
城崎カズマにとって、その日は来日して初めての、まともな休日になる予定だった。
「城崎さぁ───ん」
玄関の向こうから聞こえる甲高い声に、目を覚ました城崎は休日が消えた事実を早々に悟る。
「……ルミネちゃん?」
声から、上官である天条の娘、ルミネだろうと見当をつける。もっとも、日本に来て間がない城崎には、名前を呼ばれるような知り合いは、まだあの親子しかいないのだが。
起き上がる間にも、玄関扉が激しく叩かれる。
「ちょっと待ってくれよ……」
聞こえていないと知りつつ、つぶやきを漏らす。と、立ち上がった彼の足元で携帯電話が鳴り始めた。
短い廊下を歩きながら、表示された名前を確かめずに通話ボタンを押す。こちらから名乗る前に聞こえた声は、これまたよく知る人物からだった。
『朝からすまないっ! ルミネがそっちに行ってないだろうか?』
半ば予想通り、天条からの電話だった。
ちょっと目を離したすきに出て行ってしまったと、電話越しでも慌てている様子がわかる。普段、職務上では絶対に見せないうろたえぶりだ。
「……来ていますよ」
肩で携帯電話を支えてチェーンロックを外しながら、扉の小窓をのぞく。下の方に、小さな姿が見えた。
『すぐ引き取りに行くから、外に出さないでくれ』
「でしたら、このまま一日預かりますよ」
電話の向こうで、ためらう間があった。城崎は天条が何かを言う前に続ける。
「大佐は今日、役所へ行く予定ですよね? 役所なんて遊ぶ場所もないところでは、ルミネちゃんも退屈するでしょう。自分は日用品の買い出しに行きますが、相手をするくらいはできますから」
『しかし……』
扉を開けると、待ってましたとばかりに小さな少女が足に飛びついて来た。
「おはよう城崎さん! ねえ、今日はお買い物に行くんでしょう? ルミネも一緒に行く!」
満面の笑みで見上げてこられては、城崎も白旗を上げるしかない。
「……それに、ルミネちゃんは最初からそのつもりのようですし」
娘の声が聞こえたのか、天条は「よろしく頼む」と、どこか消沈した声で告げると通話を終わらせた。
肩を落とすその様が目の前に見えるような気がして、城崎は息を吐く。しかし、親の心子知らず。ルミネは早く、と忙しなく急かしてくる。
「ルミネちゃん、お父様に黙って出て来たら駄目だろう」
半身を開けてルミネを中に招き入れる。少女は玄関で靴を脱ぐと、きちんとそろえてから廊下を走って行く。
「だって、パパってちっとも遊びに連れて行ってくれないんだもん」
「そりゃあ、大佐はお忙しいからね」
答えながらも城崎は着替えにかかる。着ていたものを脱ぎ、脇に放り出す。そうして手に取った服を見て、彼は渋面を作った。
手に持っていたのは、ブルーグレイの軍服。どうやら無意識に、着慣れた方を選んでしまったらしい。クロゼットの中にそれを戻して他の服を探しにかかるが、途端に手が止まってしまう。
軍服以外だと、どんな格好をすればいいのかわからないからだ。
本国から持って来た荷物は、スーツケースに収まる程度なので服も大した数はない。日本の気候が赴任時には冬だと聞いていたので、厚地のものを多めに持ち込み、あとは現地調達を考えていたからだ。
振り返ると、ルミネがパイプベッドの上に寝ころび、まだかと待っている。
城崎は渋面のまま、ジーンズと濃い色のシャツ、そしてスポーツブルゾンを羽織った。ファッションなんて考えていない、適当な組み合わせだ。
出かける前に、せめて顔だけでも洗おうと洗面所に向かう。鏡の中には黒髪に黒い瞳、東洋系の男がこちらを見ている。年齢は二十代後半だが、それより若く見られることの方が圧倒的に多い。特に職場は、男らしい男ばかりが集まる軍隊だ。城崎も鍛えてはいたが、それでもマッチョな巨漢の中では少年のように見えてしまう。
数秒間、鏡の中の自分を凝視し、城崎はあきらめて顔を洗った。いくらにらみつけたところで、そういきなり自身が変わるはずもない。
ポケットに自宅の鍵、携帯電話、財布を突っ込む。朝食がまだだったが、出先で何か食べればいいとする。
「行くよ、ルミネちゃん」
声をかけると、ルミネは勢いよく起き上がり、城崎を追い抜いて玄関に向かうと靴を履きにかかる。城崎も、隣で履き古したスニーカーに足を突っ込んだ。
マンションから出ると、ルミネは当たり前のように城崎の手をつかんで歩く。城崎も特に何も言わない。ただ、少女に合わせて歩く速度を緩めた。
最初は子供と手を繋ぐことに抵抗があった。しかしルミネの両親は娘と外を歩く時は、常にどちらかが手を繋いでいる。その習慣から、ルミネは両親が側にいない場合、自然と城崎の手や鞄、服の端をつかんでくるので今ではもう慣れてしまった。
それに、城崎は天条夫婦が子供から手と目を離したくない事情を知っている。
天条夫婦は事故で一人目の子供を失っている。その為、子供を外に出す時は、少々過敏なくらいに警戒していた。母親はともかく、父親の方は神経質すぎて見ている城崎の方が気疲れしてしまうほど。だからこそ、今朝の慌てぶりも手に取るようにわかる。しかしその大事な娘を部下とはいえ、子供に慣れているとは言えない人間に預けてしまえるあたりは少し首をかしげてしまう。
信用されていることに、悪い気はしない。それに、そこまで嫌々引き受けているわけでもなかった。ルミネがまだ幼い頃から時々こうして相手をしているおかげで、子供が苦手な城崎も、ルミネの扱いだけは心得ている。それは少女も同様で、城崎には他の大人よりも遠慮がない。とはいっても、両親のしつけのたまものか、多少わがままなところはあるが、基本的には扱いやすい子供だった。
二人並んで歩いているところは、親子かはたまた年の離れた兄妹か。
そんなことを思いながら、城崎は駅までの通りをゆっくりと歩く。三月も半ばに入ってから急速に気温が上がり、薄いブルゾン一枚でも特に寒さは感じなくなった。
いつの間にか、日本へ来て一カ月近くになる。枯れ木のようだった桜には、枝の端に薄桃色の花が咲き始めた。もっとも、四季の移ろいに想いを馳せるほど、城崎は感傷的な性分ではない。ルミネのように花だ虫だと騒ぎたてるような真似もせず、少女が突然走り出さないように気を使いながらも考えるのは仕事のこと。
彼は世界防衛機構軍に所属する軍人だ。階級は少尉だが、今回の任務にあたって特務大尉へ昇進した。階級は確かに上がったが、特例処置という形なので特に権限が増えたわけではない。給料に少し色がついた程度だ。天条の副官として共に日本へ派遣される際、城崎の階級が上官との間に隔たりが大きかったので、体裁を整える為に繰り上がっただけ。城崎が選ばれたのも、天条の後押しもあったが、東洋人で日本語が堪能。現在、特に重要な任務についていない人間という条件に該当するのが彼しかいなかっただけ。