盗みの罪で収容されたシベリヤから脱出した盲目の悪人巧翁と
清浄なその孫娘織娥(オルガ)は、逃亡の果てにロンドンに現れ、
露国の貴族をかたり、財産家金林少佐の家に逗留する。
巧翁は少佐のダイヤモンドを狙い、悪事に巻き込まれる織娥は
運命の人と出会い、初めて愛を知る。
「巌窟王」「幽霊塔」を著し、江戸川乱歩から宮崎駿まで
後世に多大な影響を与えた明治のベストセラー作家黒岩涙香。
涙香には新聞連載後これまで書籍化されていない作品があった。
未完のため埋もれていた長編を初単行本化。
幻の涙香ロマンが百二十年の時を経て今よみがえる!本書は、明治三十八年に日刊新聞『萬朝報』に連載された黒岩涙香の『露人の娘』を初めて書籍化したものです。小説の舞台はロシヤとイギリス、登場人物もロシヤ人とイギリス人等ですが、当時の翻訳小説の多くがそうであるように本書でも当時の読者が覚えやすいように人名を日本風に改めてあります。
(五十五) 堤の下の青い淵
渡は夢かと思うた。織娥がどうして帰って来たのだろう。
「織娥さん、織娥さん」
と言いて渡はその手を取った。織娥の顔色はほとんど死人のごとくに青い。その身体は震えている。もしも渡がこのとおり手を取らなんだなら織娥は倒れたかも知れぬ。ほとんど倒れるがごとく、重く渡の手にもたれかかった。
「まず中へお入りなさい、織娥さん」
とて渡は織娥の手を引いた。
「いいえ、いいえ」
と織娥は初めて口を開き、引く渡の手に抵抗するごとく身をもがいた。しかしその身にいかほどの力もない。
渡「でもこのような所では」
織娥「外へ行きましょう」
これだけが織娥のやっと言うた言葉である。渡は織娥の容体を気遣うた。
何にしても織娥の心はよほど騒いでいる。一方ならぬつらい思いでここまで来たのではあるまいか。このような時にはなるほど、外を歩む方がよかろうか。静かに空気の良い所を散歩せば次第に気が引き立つかも知れぬ。
聞きたいことも言いたいこともたくさんにあるけれど、単に渡は
「では外に出ましょう」
と言い自分の腕にすがらせて表に出、なるべく人通りの少ない方へ行き、ついに河の堤に出た。
その間二人は無言であった。無言でいられる場合ではないけれど、感情のあまりにひどくたかぶる時は言葉の出ぬ場合もある。それに二人は聞く人のある所で話するをいとうのだ。
「どうしてあなたは帰って来ました」
とまず渡が問うた。織娥の胸には高い波が打っている。
「あなたに叱られるかも知れませんけれど――」
渡「何でわたくしが叱りましょう」
織娥「わたくしは逃げて来ました。おじいさんを捨てて」
たぶんそのようなことだろうと思うていた。けれど
「どうしておじいさんを捨てて」
織娥「わたくしは今朝あなたがおじいさんに会い、どのようなことをおっしゃって、どのような返事を得たかを知っています。あの後でわたくしはおじいさんと争いました。どうしてもこの国を立ち去るのはいやですとて」
我がためにそうまで争うたかと思うと、渡の心中にますます嬉しさの満つるのみである。
織娥「散々におじいさんに叱られまして、詮方なく一緒に汽車へ乗りましたけれど、汽車の中でも争いました。そうしてドイツ行きの船に乗る所まで着いた時に、幸いドイツでおじいさんと懇意にしたことのある商人に会いましたから、わたくしは船の中までおじいさんと共に行き、その人におじいさんのことを、それとなく頼んでおいて逃げて帰りました」
渡「では定めしおじいさんが驚いておいででしょうねえ」
織娥「そうです。後でびっくりなすったでしょうけれど、わたくしは汽車に乗る前から断っておきました。決してどこまでも御一緒には行きません。途中から逃げますよと」
もし渡の心が平らかならば、盲目の老人を捨てて来たこの所業を、いささか穏やかならぬように感じたかも知れぬけれど、こうまでこの身を思うてくれるかと思えば感謝するほかはない。
「わたくしとても、もしあなたと同じような場合に立てば必ずそのとおりにいたします」
とて賛成の意を表した。
織娥「はい、わたくしもそう思いました。あなたが昨夜よしや父上が不承知でも、全世界が反対しても、構わぬとおっしゃったゆえ、わたくしもよしおじいさんが叱ろうと構わぬと思いました。このように逃げて来ねばあなたへ済まぬと思いました」
全く織娥はこの言葉のとおりである。祖父愛雲を捨てて途中から逃げて来た。けれど愛雲の方では織娥に逃げられたとは思うていぬ。実は織娥を逃がすように仕向けたのだ。彼はどうしても織娥を渡の妻にせねばならぬと思うているけれど、もし自分からその婚礼に賛成しては、いろいろの手続きもしてやらねばならぬ。そのようなことをするだけの余裕が自分にはない。それだから表面に織娥を叱りつつもなるべく織娥の心が激するように、なるべく渡を慕うように、途中から逃げて行かねばならぬように、いと巧みに仕向けていた。彼の老獪な手に掛かっては織娥は知らず知らずどのようにでももてあそばれてしまうのである。定めし愛雲は今頃自分の計略のうまかったことを喜び舌を吐いているのだろう。
織娥自身さえそうと愛雲の心を見抜き得ぬほどだから、まして渡はそうと疑うはずはない。何事もただ嬉しく感じた。けれど又、この後のことを考えてみると、どうして織娥を養うという当てもない。父の許しをさえ得れば、父がどのようにでも計ろうてくれるけれど、それにしても大公爵の姫君という織娥の身分に相当する暮らし向きをさせることなどは思いも寄らぬ。差し当たり今夜どこへどのように織娥を泊まらせて良いかそれさえも思案が付かぬ。そのような心配のため渡の顔色がいささか真面目になるを見て織娥は言うた。
「わたくしがこのようにして来たのを、あなたもお叱りなさるのですか」
渡は慌てて答えた。
「わたくしはただありがたく思うのみです。何で叱りなどいたしましょう」
織娥は日頃から人に優れた勇気のある女ではないけれど、前後の事情に押し詰められて、今は確かに決心している。祖父のそばから逃げ去ったのが大なる決心である。渡の宿を尋ねて共々にここへ来たのも決心のためである。このようなことまでして、もし渡に喜ばれねば、もうこの世に身の置き所がない。それもほぼ決心している。
「渡さん、もし少しでもあなたが、わたくしのしたことを良くないようにお思いなされば、少しも御遠慮に及びません。今のうちに、隠さずにそう言って下さい。今ならまだどうにでもなりますから」
織娥の心には今立てる堤の下に青い淵のあることが浮かんだ。一足身を寄せれば、後は淵の水がどのようにでも処分してくれるのだ。
織娥のような気の小さい女にかくまでの決心を起こさせるとは、憐れむべき境遇である。
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