盗みの罪で収容されたシベリヤから脱出した盲目の悪人巧翁と
清浄なその孫娘織娥(オルガ)は、逃亡の果てにロンドンに現れ、
露国の貴族をかたり、財産家金林少佐の家に逗留する。
巧翁は少佐のダイヤモンドを狙い、悪事に巻き込まれる織娥は
運命の人と出会い、初めて愛を知る。
「巌窟王」「幽霊塔」を著し、江戸川乱歩から宮崎駿まで
後世に多大な影響を与えた明治のベストセラー作家黒岩涙香。
涙香には新聞連載後これまで書籍化されていない作品があった。
未完のため埋もれていた長編を初単行本化。
幻の涙香ロマンが百二十年の時を経て今よみがえる!
編集 真壁雅彪 口絵 いずみチエ
本書は、明治三十八年に日刊新聞『萬朝報』に連載された黒岩涙香の『露人の娘』を初めて書籍化したものです。小説の舞台はロシヤとイギリス、登場人物もロシヤ人とイギリス人等ですが、当時の翻訳小説の多くがそうであるように本書でも当時の読者が覚えやすいように人名を日本風に改めてあります。
(一) 雪中の落人
高く低く、うねうねに広がりて、果てしもない千里万里の大広野、これは寒い寒いシベリヤの原である。降る雪に、目の届く限りはうずまって、黒いのはただ天のみだ。
このものすごいほど広い大野原の中で
「や! や! 狼の群れだろうか? コサックだろうか?」
と怪しむ叫びが、辺りをはばかるような、押し伏せた声で発した。
人の居ぬのに誰をはばかる。これは問わでも知るき、自分の影にさえ心を置く落人である。人間の地獄といわるるシベリヤの獄を脱け出て、いずれかに忍び行く罪人なんだ。おのれ等の後ろの方に、何か黒い影が現れたため、かつ恐れかつ怪しむのである。
狼か、コサックか、いずれにしても、落人はその名前だけで戦慄する。雪の野原を駆け回る飢えた狼の群れは、コサックと共にシベリヤの名物である。狼ならば落人は噛み殺される。コサックならば、捕らわれて元の獄に引き戻され元よりひどい虐遇を受けるのだ。
かような危険を冒し、この寒い雪の野を落ちて行くとはよくよくのことであろう。落人を乗せたのは一隻の大ソリで一匹のやせ馬に引かれている。今しも怪しみ叫んだのは皮の頭巾から目ばかり出したその御者なんだ。
声に驚き、ソリの中から、革の幌を開いて立ち出たは四十格好の髯男だ。
「どれ、おれが見定める」
と言いつつ頭を上ぐるはずみに、古い毛皮の汚ない帽子が幌のひさしに叩かれて脱け落ちた。すぐに取り上げてかぶり直したけれどその時に見えた彼の頭は、半分だけ髪が長く肩に垂れるほど伸び、半分は短く刈ってある。これが重罪人の印である。片鬢剃り落とされたのが今はよほどの時を経たのだ。
「どれ、どこに」
と彼は言い伸び上がって後ろを見た。
御者「あの電信柱の先に」
落人「おお、あの小さい林の――」
御者「お前さんの目に小さい林のように見れるのが林ではないのだよ。このソリを追っ駆けてくるのだよ。少しの間、見ておいでなさるが良い。林ならだんだん小さくなるはずだのに、だんだん大きく見えてくるからよ」
針で突くような痛い風が落人の鼻面を撫でて吹いた。それにも構わず落人は熱心に見つめていたが
「いけない。雪の白さが眼を射て、ええ、このように見ていると、おれも眼が潰れるわ。おれまで盲目になっては大変だ」
と言いてうつむいて眼を閉じ、さらに
「なるほどこのソリを追っているようだ。狼かしらん。狼ならば人家があれば助かるのだ。何でも早くどこかの村へ着きたいものだ。石助[いしすけ]、石助、早くやれ」
石助とは御者の名だ。
「早くとて、この先三十露里以内には人家がない。馬もこのとおり疲れていますわ」
落人「それともコサックかしらん。コサックなら森林の中へ隠れれば助かる。どこかに森林はないか、石助」
御者は落人よりも幾分か落ち着いている。
「ああ、ああ、森へ逃げ込めば狼には助からぬし、人家へ逃げ込めばコサックには助からぬ」
とつぶやいた。
落人「これ石助、森林はないか。森林へは何里ある」
石助「ざっと五十露里もあろうか。狼でもコサックでも一時間掛からぬうちに追い付いて来ますわ」
落人は絶望のうめき声を発した。
時しも幌の中から
「おとっさん、おとっさん」
と呼ぶ声が聞こえた。
重罪人の落ちて行くソリの中に、どうしてこのような美しい声が潜んでいるだろう。気遣わしげに潤んではいるけれど、ほとんど鶯の鳴くかとも思われる。落人はこの声に引かれ、幌の中へ入り、あたかも瘧[おこり 編注 マラリアのような間欠的に発熱し悪寒や震えを発する病気]を振るう人のように身を震わした。骨に浸む寒さの上に、恐ろしさも加わったのだろう。幌の中には同乗者が二人居る。一人はこの者の父だろう。年は確かに六十の上、蓬々と白い髯が襟巻の外にはみ出し鼻息が数珠のように凍り付いている。今一人は今の美しい声を出した当人で、この者の娘だろう。年は十七、八か、十九とはまだ見えかねるほどの若い女だ。心配や艱難[かんなん]のためにやせたのか肉付きはいささかよろしくないけれど、声の美しさよりも美しい。やがて入り来る父を見て、長いまつげに覆われた星のような鮮やかな眼を上げたけれど、いたく恐れに襲われて、何事と問いも得せぬ。ただ手を伸ばして、震えている父にすがり、父を引き下ろすようにして座らせた。そうしてようやくに言うた。
「あんまり長いからおじいさんが心配なさるではありませんか」
父は声までも震わして
「ああ、駄目だ、駄目だ、運の尽きだ。コサックでも狼でも一時間とたたぬうちに追い付くよ。到底逃れる道がない」
父と娘との聞く前で、もう危うさを隠そうともせず、こうありのままに言うのは到底免れぬと見て取った絶望の極である。
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