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夏鴉(枯縁文庫)

  • 南1-2ホール | R-40 (小説|純文学)
  • なつがらす
  • コガイ
  • 書籍|文庫判(A6)
  • 26ページ
  • 300円
  • https://kafkafuqua.booth.pm/i…
  • 2025/10/1(水)発行
  • 小説 | A6(本文26P)

    舞台は東京都枯縁市、枯縁駅。
    会社員の古田と謎の男<鴉>の短編小説。
    「生きる意味って、何だと思う」
    「ないよ、意味なんて。ただ、人間は幸せになる為に生きている」

    マット加工の表紙と遊び紙を使用した文庫本です。

    2025.10.01. 初版発行
    2026.06.01. 第二版発行(表紙、奥付けのデザインを変更。内容の変更はありません)


    (試し読み)
     ——枯縁駅のホームはさながら人からなる海のようで、泳ぐことをやめてしまえば、必然と溺れてしまいそうなほど波打っている。
     事実、古田は足を止めていた。このまま自然と沈んでしまうなら、それで良かった。しかし現実は、呆然と立ち尽くし流動を妨げる彼のことを許しはしなかった。
     それでも古田は動かなかった。人の視線も、声も、肉体の衝突さえも、どこか遠くのことのように感じられた。水中で鼓膜越しに響く濁音のように、生温く歪んで耳に届く。
     古田は、ただただ立っていた。グレーのスーツに黒いビジネスバッグ。真夏にも関わらず、ジャケットを着てネクタイまで締めている。案の定、シャツは汗でびっしょり濡れていた。
     古田はなにもしていなかった。電車に乗る気も、階段を降りる気も、ポケットからスマートフォンを取り出す気さえ起きなかった。今、時間が流れているのかすらわからない。不自然なほど直立不動である彼の目の前を、人の形をした時間が流れていく。
     「死にたい」とは思っていなかった。ただ、「続けたくない」と思っただけだった。
     だがこの社会は止まることを許されていない。泳ぎ続けることを仮定し設計されている。
    『間もなく、4番線を列車が通過します。黄色い点字ブロックの内側までお下がりください』
     無機質な構内アナウンスが空気を震わせる。機械的で感情を持たないその声に顔を上げた。
     次に、足元を見た。黄線と、白線。その先にある鉄の線路がぎらぎらと陽を反射していた。夏空は嫌気がさすほど真っ青で、入道雲が浮かんでいる。蝉時雨がホームの屋根に溶け込んでいた。
     古田は、黄色の線の上に立った。
     自分は誰の時間を奪っているのだろう、何の流れを堰き止めているのだろう。この世界に於いて自分という存在がただの漂流物のようになってしまったという考えが、今更ながら妙にしっくりきた。
     朝の通勤ラッシュが終わったものの昼の喧騒にもまだ遠い、午前十時過ぎの枯縁駅のホームは驚くほど静かだった。
     駅名標がかたかたと鳴った。電車が来る。彼は、もう一歩だけ、足を踏み出してみようと思った。
     誰も彼を見ず、駅員の姿も見えない。それが、ありがたかった。自分が消えても問題ない。そう思うことがほんの少しだけ、救いに思えた。
     蝉が喧しく鳴き、壊れたスピーカーのように空気を揺らしていた。
     古田はスマートフォンを取り出し、最後の確認のように画面を見る。しかし今際には、不在着信も通知も、スケジュールもリマインダーも関係ない。
     踏切の電鐘が鳴る。電車が、来る。
     ふと、風が吹いた。髪が乱れ、汗が額を伝った。頬に一筋、熱いものが流れた。汗か涙か、分からない。でも、どうでもいい。
    『——間もなく、4番線を列車が通過します』
     世界が、傾く。

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